番外編 私とルーク
ルークと初めて出会ったのは、2004年4月の秋である。
4月といえば春だろう、と言われるかもしれないが、出会ったのが南半球のオーストラリアだったのだ。彼とは同じソーデン家にホームステイする、ある種のルームメイトだった。
私はアジア人のルームメイトがいるとは聞いていたが、中国の人とは思わず最初はとても驚いたものだ。
ルークは中国上海生まれである。1985年生まれなので私より3歳年上だ。
「ルーク」と言う名前は中国圏独特の英語名である。ブルース・リーやジャッキー・チェンといった香港人が中国名(李小龍・繁成龍)と同時に持つことがルーツで、それが大陸にも広まった経緯があるらしい。だから、ルークの中国名は「李◯◯」である。忘れてしまったのはどうか許してほしい>ルーク
彼と出会うまでは、中国人というと「人民服を着て、北京の天安門広場を自転車で走っている」というステレオタイプなイメージしかなかった。ゼンジー北京のような話し方をするイメージとセットで。
しかしそれは全く違った。
私は留学に備え15万円ほどで買った富士通のラップトップを持っていったのだが、彼はその倍はするであろうIBMのThinkPadを使っていた。また身なりも大変スマートで、私の方がよっぽど世間知らずに見えたと思う。
また彼は学業優秀スポーツ万能で、私が退屈にしていると近所の公園までバスケットボール片手に遊びに誘ってくれたものだ。その影響で私は球技に興味を持ち、最終的にクリケットを学校の課外活動で始めることになる。
彼の父は上海のホテル・レストランでグランドマスター(総料理長)だと言っていた。また彼はビザの関係でアルバイトが可能で、中華料理店で週3回ほど夜遅くまでアルバイトをしていた。
彼が夜遅くに帰ってくると、私の部屋をノックしてくる。すでにソーデン夫妻はとっくに寝た時間だ。
オーストラリアの飯がまずいわけではないが、正直飽きてきてしまうし、何よりパンと肉が中心の食事は我々東アジア人には少々ヘビーだ。
そんな中彼は「まかない料理」をタッパに入れて持って帰ってきて、炒飯のようなチャプスイのようなものを振る舞ってくれる。バイトにいった日はほぼ毎日持ち帰ってきてくれたので、週3回は彼が作る料理を夜食として食べていたことになる。
父親が総料理長なだけあって、彼の作る中華料理は最高に美味かった。
もしかしたらバイアスが働いている可能性も多分にあるだろうが、それでもあの時より美味しい中華料理というものを食べたことがない。
またちょこっと書いたが、彼はどちらかというと「都市部のインテリ層」だったと思う。
中国は日本と違う漢字を使用している(繁体字と簡体字)が、彼は何の問題もなく繁体字(日本と台湾で使われている文字)を読み書きできた。日本や中国の固有名詞は文字が同じでも読み方が全く違うので、漢字による筆談はとても便利だった。
第一、中国の鄧小平が改革開放路線を始めてからまだ10年程度と言う時期に、一人息子とはいえ私費留学させるための資金力が彼の親にはあったと言うことになる。
そして何より、彼と私は一緒に登下校していた。学校が同じだったから。
国立公園の中を自転車で突っ切って20分位だっただろうか。あの風を切りながら大自然の中を、友と共に毎日通学したあの頃が懐かしい。
彼とは旅行にも行った。彼が「華僑の知り合いがNZに居るんだけど、一緒に行こうよ」と誘ってくれた。私は二つ返事で承諾した。ブリスベンからニュージーランドのオークランドまで行き、ロトルアの洞窟にも行った。
当然、彼の知り合いの家に泊めてもらったのだが、彼らは自分の前では決して中国語で話をすることはなかった。今思えば中国国内でも言葉が違う可能性が大いにあるが、当時私に気を遣ってくれてるんだな、と思った記憶がある。
彼とは2年半を一緒に過ごした。彼の方が卒業が早く、一度中国に帰りそこからドイツへ向かったらしい。
別れの日、彼は私の携帯電話にショートメールを送ってくれた。
「さようなら、本当にありがとう。君は本当の親友で、まるで弟のように感じられた。いつかまた会おう」と。
彼はその後ドイツの有名大学を卒業し、現在はスイスにある製薬会社の研究部門に居ると聞いた。
一方の自分は心臓病を発症してしまい、長距離フライトにはもう耐えられそうにない。
今でも彼は何をしているだろうとふと思う。
あれほど尊敬できた兄貴分を持てた自分はとても幸せだった。