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振り回され、引き延ばされ、立ち止まられる喜び 〜東京芸術祭2024〜

2024年9月に、東京芸術祭で3つの演目を鑑賞した時のメモ。がっつりネタバレあり。


木ノ下歌舞伎『三人吉三廓初買』


泣 い た 
全然長さを感じなくて、終わる頃には脇目も振らず号泣。
予期せぬ困難や、恵まれない境遇にあって、それを過去の因果かもしれないと、思えた方が楽になる。
お坊吉三が、「これって自分でどうにか出来たのかな」とお嬢に言うのが印象的で、吉三3人の最期をほぼ台詞なしホタルの光だけで魅せるのが、今これを書いてても泣ける。

木ノ下さんのコメントがまた素晴らしくて、作者の想いや、それを当時の人々がどのように受け止めたのかを、現代の我々が現代の文脈で追体験できるようにしてくれていることを実感する。
(『三人吉三』は、初演時はあまり評判にならなかったらしいけど)

日本文化の上澄みだけを掬い出して“美しい国”をアピールする昨今の風潮においては、歌舞伎もまたはその道具の一つにすぎないのかもしれません。
(中略)
震災(安政の大地震)や疫病(コレラ)の大流行という受け止め難い現実に対して、死んだ者と生きる者へ万感の愛惜を込めて筆を握り、立ち向かった黙阿弥のパッションを現代に蘇らせたいと思っています。

https://www.geigeki.jp/performance/theater364/

古典を観る楽しさには色々あると思いますが、その1つは昔に書かれた話を読むこと、あるいはそれを現代的に解釈したものを観ることによって、昔はこういう感覚だったのだなとか、ここは変わっていないんだな、私たちが無くしてしまった感覚がここにはあるなということを再発見することだと思います。つまり古典を観ながら現在の私たちが立っている時代がこれまでどういうふうに変化してきたのか、過去と現在の距離を測ることができるのです。

https://natalie.mu/stage/news/582441

全てをわかりやすくするだけでなく、例えばセリフは、現代の言葉で語れられる部分と、元々の七五調の美しさが混ぜこぜで進行するから、詩的な部分が無理なく聞けるし堪能できる。なのに、あえてあの「月も朧に白魚の」の部分は現代語になっていて、そうなんだよー美しいのはここだけじゃないよね、と嬉しくなった。

『三人吉三巴白浪』では描かれない文里・一重の廓の話や、初演以来(2014年の木ノ下歌舞伎『三人吉三』まで)上演されていなかった「地獄の場」は、歌舞伎だけ見ていたらずっと知らないままだったかもしれない。

様々な意味で、この上演に出会えたことに感謝しかない。

円盤に乗る派『仮想的な失調』

実験的なプロジェクトとして好意的にとらえたし、古典の読み直しとしてこういうアプローチもありだよねと思えた。けれど、自分の引き出しが少なくて、これをきちんと評価できている自信はない。

狂言「名取川」と歌舞伎「船弁慶」を下敷きに、自己を作り上げるのは今この瞬間に存在しているという事実だけではなく、名前や他者からの評価、過去や未来も現在の自己に影響を及ぼしていることを考えさせてくれた。

果たして、9太郎(あるいは幽霊)は、何者なのか、これはどんな時代のどんな世界なのかは究極的に観客に委ねられている。

あるいは語られるものの不確かさ。勝者の側からしか語られない歴史や、拡散された匿名の投稿が歪んだ正義感として暴力的な力をもってしまうSNS上の語り。
9太郎(九郎判官義経)の兄(つまり名前は出てこないが頼朝)の視点で書かれたものの裏側には、ヒラオカくん(平知盛)のような存在が多くいるだろう。

古典へのまなざしを考えさせるという点で木ノ下歌舞伎、動きや話法を意図的に不自然にするという点でチェルフィッチュをブリッジさせる作品でもあったと考えるのはいささか無理矢理だろうか。

東京芸術祭のチラシ?冊子?に掲載されたカゲヤマ気象台のSPECIAL ESSAYが興味深いので記録しておきたい。

「円盤に乗る」とは「現実の社会においては何の意味もないが、個人にとっては決定的な体験」という意味で、つまり演劇の観劇体験のメタファー(比喩)だというものだ。
(中略)
演劇は昔からずっと、特殊な時間について扱ってきた。国が亡びる間際の時間(『トロイアの女』)や、狂気を演じながら逡巡する時間(『ハムレット』)、いつまでも来ない人物を待ち続ける時間(『ゴドーを待ちながら』)などなど……。そもそも演劇というものは、普段の生活とは異なる時間を観客n体験させるための芸術なのだとすら言えるかもしれない。だとすれば、「円盤に乗る」時間とはいったいどういう時間なのだろう?

https://artscape.jp/report/review/10176823_1735.html

チェルフィッチュ× 藤倉大 with アンサンブル・ノマド『リビングルームのメタモルフォーシス』

2026年から東京芸術劇場の芸術監督(舞台芸術部門)になることがけっていしている岡田利規と、ボンクリの アーティスティック・ディレクタとして同劇場では馴染みのある藤倉大のコラボレーション。

観客にとっては両者が芸劇でコラボしていることに違和感はないが、ウィーン芸術週間の芸術監督から岡田利規へ、「藤倉大と新しい音楽劇を」とのオーダーがあって実現したとのこと。

よく分からないけれど、これは劇伴音楽の域を出ているのだろうか?攻めてないように感じるのは作曲なのか演奏なのか?と終始気になってしまい、舞台上で生み出される不気味な世界観に乗り切れず冷静な自分がいた。

東京芸術祭は今年で9年目。
あまり「芸術祭」であることを意識せず、気になる演目があったら観に行くというスタイルだったので、特に気にしていなかったが、今年の10周年は大々的にやったりするのかな、と楽しみ。

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