但東さいさいに、「アジア有数」の可能性を感じた〜豊岡演劇祭2024〜
2020年に始まった豊岡演劇祭も、今年で4回目(2021年の公演は中止になったので、5年目だが4回目)。
豊岡演劇祭2024では、3日間で6つの舞台を見ることができました。
アジア有数のフリンジ型の国際演劇祭を目指す豊岡演劇祭。こういった大規模なフェスティバルが、芸術性と地域住民の理解の双方を深めるのには時間がかかるものですが、後者はいよいよ実を結んでいると感じ、今後の発展が楽しみです(前者についてのコメントは記事中にて)。
ディレクターズ プログラム
フェスティバルディレクターの平田オリザが選定した「ディレクターズ プログラム」からは、以下の3つを鑑賞。
マームとジプシー『Chair/IL POSTO』@芸術文化観光専門職大学 静思堂シアター
コーンカーン・ルーンサワーン『Mali Bucha: Dance Offering』@城崎国際アートセンター
青年団『銀河鉄道の夜』舞台手話通訳付き公演@江原河畔劇場
マームとジプシーは、いつもながら映像が美しい、なんなら舞台全てが美しいのだが、私はどうしてもマームとジプシーの舞台に、その美しさ以上の魅力を感じ取れない。なんとなく、舞台ではなく映像の方が彼には向いているのでは?と今回も思ってしまうのであった。
「KIACレジデンス・セレクション」プログラムの一つであるコーンカーン・ルーンサワーンは、これまでの「舞台」というものに一石投じるような作品。厳格じゃない開演時間、上演中にいじれるケータイ。双方向性がもうちょっとブラッシュアップされたら(即効性が武器のSNSからの投稿が、翌日にならないと舞台上に投影されないの惜しいなと思うし)、もっと面白かったし可能性が広がるのではないか、と。
ようやく観られた青年団『銀河鉄道の夜』、嬉しい。平田オリザ『幕が上がる』は、映画は見ていないけれど何度も読んだ作品なので、本当に胡桃の演出があるーなどとテンションが上がった。オリザさんは宮沢賢治の原作について「親しい者の死を受け入れることは、宇宙を一周、経巡るほどに時間がかかる」とコメントしていて、これ以上に原作の補助線になる言葉もないと思っている。
舞台手話通訳は、もはや重要な「役」だった。人物のセリフだけでなく、心情も届けて、しかも進行の見守り手としても機能していた。私は聞こえる側なので、聞こえづらい人・聞こえない人がどんな評価だったのか知りたいところ。
名作を名演になる瞬間に立ち会えることほど幸せなことはない。
フェスティバル プロデュース
演劇祭がプロデュースする「フェスティバル プロデュース」からは
烏丸ストロークロック × 但東の人々『但東さいさい』@畑山 日出神社
のみ鑑賞。これには猛烈に惹かれて、演劇祭が終わった今でも思い出すだけで熱狂できる(後述)。
フリンジ セッション
公募から選ばれた「フリンジ セッション」からは、以下の2つを鑑賞
松原俊太郎 / 小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『ダンスダンスレボリューションズ』@豊岡稽古堂 市民ギャラリー
劇団不労社『悪態Q』(豊岡公演)@友田酒造
フリンジセッションでは、毎年素敵なアーティストとの出会いがある。昨年はバングラ『習作・チェーホフのかもめ』にハマって会期中2回観たし、安住の地もルサンチカも、その存在を教えてくれたのはフリンジだった。
松原俊太郎は、地点に書き下ろした作品しか観たことがなかったけれど、緻密な骨組みの中で、概念や言葉が自由に遊んでいるような彼のバランス感覚は健在。世界の法則が(例えば重力とか)歪められたような、独特の浮遊感があって、日常を斜めから俯瞰する視点を得たような、そんな気分にさせられる。スワン(白鳥の湖?)とディディ(ゴドー?)と、矢印と気印の、不思議な不調和。
今回最も呆気に取られた劇団不労社は、大・実験大会!!!に強制的に巻き込まれましたといった具合。アイディアを積み重ねて煮詰めまくって、何が起こるのかどこに連れて行かれるのか分からない、ブレーキの壊れた安全ベルトもないアトラクションに乗車させられてきました。
但東さいさい という新しい文化芸術
但東さいさいは、烏丸ストロークロックが但東地域の歴史を調べ上げて作ったオリジナルの神楽。
彼らは、2020年のフリンジプログラムに参加したことをきっかけに、地域との関係を深めるための作品作りを続け、この地域に農村歌舞伎の舞台が20ヶ所ほど現存していること、多くの民話が残っていることを知る。
(農村歌舞伎舞台は特に兵庫県で発達した文化らしく、全国に1,000基以上あるうちの、約10%が兵庫県内に存在するとのこと)
これを研究・実践していた神楽と融合させることで、但東に馴染む作品が作れるのではないかと考えた。
2022年から、合橋(あいはし)・資母(しぼ)・高橋の3つの集落を巡回しつつ、また、バージョンアップを重ねながら公演を続けているとのこと。今年は、これまで標準語で行われていたものを但馬の言葉にしたり、大人が舞っていたパートを子どもが舞ったりという変化があったそうです。
単発で終わらず、継続性のあるプロジェクトであり、住民が主役でありつつも、そこに烏丸ストロークロックや美術家・舞台衣装家などが関わることで外部の客観性、専門性も取り入れることができる。この地には神楽があったわけではないし、電子太鼓なんかも使っている。けれど、やはり民俗芸能には時代の変化を受け容れる度量があるし、ここには地域の外と中から認められたハレの日の芸術があると思った。
幕間には地域の方が出店している露店でビールを飲んだり、おつまみ食べたり、草陰で仮眠をとっている人もいて、この空間が豊岡演劇祭が目指す「アジア有数」の一つの到達点なのではないかと感じた。
これは2022年の記録映像だけど、最後の柳沼さんの言葉が印象的。
どこを目指して「アジア有数」になるのか
平田オリザ『但馬日記』(2023年,岩波書店)には、KIACのAIRについて、以下のような地域住民の反応が紹介されている。
確かに、豊岡演劇祭も、世界的なアーティストを招聘している。でも、今年はプログラムを見て「あれ?なんだか去年までより豪華さに欠ける気がする?」と正直思ってしまった。全てを見たわけではないけれど、ディレクターズ プログラムは例年より「わかりやすい」作品が並んだようにも感じる。「このレベルの作品」が果たして並んでいたと言えるだろうか。
もちろん、完全なる外からの移植だけでは、その地で行う必然性が担保されない。表面的なフィールドワークを形にするだけのものでは質が担保できない。『但東さいさい』は、この地でやる納得感も、完成度も高かった。
この点に関連して、オリザさんは日経新聞のインタビューで以下のように答えている。
バランス感覚。それは、フェステティバル全体を考えたときになくてはならない視点だろう。でも、バランスだけを考えた演目を並べること、ではないはず。今年は、地域性も芸術性も素晴らしい『但東さいさい』という作品には出会えたけれど、「このレベルの作品」は少なかった。
予算をかけて尖ったカンパニーを招聘するだけが大切とは言わないし、今あるものをどう魅せていくか(例えば、但東さいさいはどうやったら海外のゲストに見てもらえるか)も考える必要がある。いずれにしても何をもってアジア最大級なのか、何をもってアジア有数なのか、もっと演劇祭の目指すところを、さまざまな人が語れる必要があるのではないかと感じた。