「マタイによる福音書」第4章12〜17節「悔い改めよ、天の国は近づいた」
9月22日における尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による説教。テーマは「マタイによる福音書」第4章12〜17節「悔い改めよ、天の国は近づいた」。
自分は尾久キリスト教会の前には、びわ湖教会の牧師を務めていた。滋賀県は関西では、若干見下されているところがある。大阪は経済が繁栄、京都は歴史のある都だった。それに比べれば、滋賀県は「田舎」と見られていた。滋賀県への偏見に対して「琵琶湖の水を止めるぞ」などというギャク映画もあった。このように地域を見下す風潮は、古今東西あった。イスはガリラヤで宣教を開始する。ガリラヤには湖があり、イエスは湖畔のカファルナラムに住んでいた。弟子の多くもガリラヤ出身であった。ガリラヤという地名は「周辺」というニュアンスを持つ。つまり「片隅」という意味である。これはイザヤ書の預言が実現した歴史である。当時の世界の中心はローマ帝国の首都たるローマであった。その支配下にあるとはいえ、イスラエルの中心はエルサレムであった。ガリラヤは、異邦人の地と呼ばれていた。北部イスラエルはアッシリアの捕囚となったり、周辺各国に侵略されて、人種混合も多かった。従って「汚れた人々」と見捨てられたエリアであった。このような地をイエスが活動拠点としたことこそ、神が人から軽んじられている者を見捨てないという証しである。
「悔い改めよ、天の国は近づいた」は、イエスの最初の言葉であった。これは神に立ち帰ること、すなわち心の転換を意味する。闇に向かって進んでいるわれわれは、回れ右をすることによって、光に立ち帰る。太陽に背を向けていると、自ずと影ばかりを見る。太陽と向き合うことによって、暗闇から光の中に抜け出すことができる。「主の祈り」では「我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく,我らの罪をも赦したまえ」とある。全ての人は罪人である。罪とは神に背を向けて生きること。「主の祈り」にあるように、われわれには日々の糧と共に、日々の赦しが必要である。マタイ伝「天の国」は、他の福音書では「神の国」と表現されている。その国は「行く」のではなく「来る」のである。ローマ人への手紙第14章17節には「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである」とある。その完成の日とは、イエス再臨の日であり、われわれは永遠の生命を与えられる。 C.S.ルイス「ナルニア国物語」の最初の巻は「ライオンと魔女」である。4人の兄弟姉妹である少年少女たちが旅立ったナルニア国。そこはかつてライオンのアスランが治めていた。しかし白い魔女がとって代わり支配していた。ナルニア国は雪に閉ざされ、逆らう者はみな石にされた。ナルニア国には、アスランの帰還によって、誤りは糾され、平和な世界に戻るとされていた。このアスランはキリストを象徴している。アスラン=キリストこそ、御国を来らせたもうのである。
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