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亡父の墓参、久保山霊堂に遺されたBC級戦犯の記憶
亡き父の墓参。横浜の久保山霊堂に遺骨が納めてある。横浜国大やランドマークタワーなど横浜市街が高台から望める風光明媚な場所である。ここ久保山(火葬所)は、巣鴨プリズンで処刑されたA級戦犯7人の遺体が焼却された地でもある。三浦霊園にある上司の墓へは年に2回行っているのに、父親の墓参りは年に一回で誠に申し訳ない。
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ここで何度か触れてきたが、日本人最後にBC級戦犯として、横浜裁判で判決を受けた人。西部軍三大事件の一つである油山事件に関与した。他の2つは九州大学医学部生体解剖事件、石垣島事件。いずれも米軍捕虜の殺害事案である。父はメモ魔かつ写生家かつカメラ小僧であった。記録整理な性分だったようで、膨大な戦中・戦後資料を遺していた。陸軍中野学校➡︎西部軍配属➡︎油山事件➡︎多治見に逃亡・隠匿➡︎横浜裁判➡︎巣鴨収監に関わる経緯。私は二十歳になった歳になった時に、父に自宅の別室に呼ばれて、父の戦後史を初めて聞き、その資料を託された。「おまえも二十歳になったから、もう知っていてもいいだろう」。まさに衝撃の一夜であった。それまで父を謹厳実直な人生を送って『口数が少なく、面白みの薄い人だなあ』と思っていた印象は一変した。歴史の苦難を乗り越えて生きてきた父へのリスペクトは、それ以来絶対的に確立した。
たまたま日本フィランソロピー協会に頼まれたエッセイに、父の生前の思い出を執筆した。その文を日経新聞の記者が読んで、新聞に掲載した。その記事を読んだエッセイストの故・小林弘忠先生が「逃亡」というエッセイを毎日新聞社から出版して「日本エッセイスト・クラブ賞」を受賞した。「逃亡」を読んだNHKディレクターが、井浦新が主演の「最後の戦犯」という90分ドラマを放映した。そのドラマを観た中央大学・松野良一ゼミの学生たちが映像ドキュメントを製作している。松野教授から紹介されて、油山観音で深尾裕之氏が始めた「B29搭乗犠牲者慰霊祭」に主賓として二度参加した。父の出遭った受難を後世に伝えることが、自分の人生の一つの責務と思っている。
1️⃣小林弘忠「逃亡」
https://www.amazon.co.jp/dp/4122053463/
2️⃣NHK「最後の戦犯」
あんなに苦労して生き延びた父であったが、齢65歳の若さで胃癌で他界した。どちらかと言えば健康フェチな人だっただけに、早逝は意外にして『もっと喋っておけばよかった』という悔悟しきりであった。今の自分は父親の享年と同い年になった。だからこそ、昨年の油山観音慰霊祭に、息子が『行きたい』と同行してくれたのは嬉しかった。第二次世界大戦を体験した人は、もはや数少ない。その家族ですら高齢に達している。ウクライナ、ガザ地区、アフガニスタン紛争、シリア内戦、クルド問題、南スーダン内戦、リビア内戦など世界は許しがたい惨状を各地で呈している。経験者なら二度と起こしたくない戦争。繰り返してはならない記憶は、後世に伝えるべきなのだ。
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