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創世記第21章1〜7節「涙を笑いに変える神」
7月21日における尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による説教。この日の題材は創世記第21章1〜7節「涙を笑いに変える神」。
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90歳になる妻サラは、100歳になる夫アブラハムの子を産んだ。その子はイサクと名付けられた。イサクとは「笑い」の意である。自分も息子が産まれた時に「笑多(しょうた)」と命名しようと提案したが、妻に難色を示され、義父に「落語家みたいな名前はやめろ」と言われて断念した。
第21章でサラは笑ったとあるが、この笑いを第18章でのサラの笑いと比べてみよう。第18章では、出産を預言する御使に、サラは心の中で冷笑した。この笑いはそれまで子を持ったことがなく、既に閉経したサラにとって、しかも100歳に達する夫を持つ身で、無理もない気持ちでもあった。しかし全能なる神に対して、それは不信仰な笑いでもあった。心を見透かされたサラは「笑っていません」と慌てたが、御使いにも神にもお見通しであった。
「使徒信条」の最初に「全能の神」という下りがある。これはキリスト教の教理である。教理とは、その宗派が真理とする道理である。これを今の自分とどういう関係があるかということに関して、神は決して常識を無視するわけではない。信仰に至っても、病院も葬儀屋も要らない世界というわけではない。ただサラの笑いを取り上げてみれば、第18章の冷ややかな笑いは、第21章では心から暖かい笑いに変わっている。サラは涙ながらに感激と喜びに震えたことだろう。信仰者には希望がある。希望を捨てる必要がないということである。「コリント人への手紙」第13章13節には「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである」とある。
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