阿武松部屋・慶天海の断髪式【Part1】埼玉栄高校相撲部の結束力
阿武松部屋で長く応援させて頂いていた慶天海の断髪式に参加。長文につき、相撲好きの方のみご一読下さい。
思い起こせば、発端は阿夢露関だった。自分は過去の贔屓力士は二人だけだった。1人目は第51代横綱・玉の海だった。右四つになると万全で、腹に乗せる吊り出しが見事だった。天才型の北の富士に対して、コツコツ努力型の力士だった。彼は全盛期に盲腸炎で、虎ノ門病院に入院、そのまま27歳の若さで急逝してしまった(死因は肺血栓)。当時は小学校6年生だった、僕は悲嘆呆然だった。その後に旭國や琴錦など好きな力士はいたが、贔屓とまではいかなかった。そんな自分の前に出現したのが、阿武松部屋千秋楽パーティーに行った際の阿夢露だった。私の2番目の贔屓力士である。日本語もたどたどしく、体重も少なく、相撲の取り口も不器用だった。ただ当時の師匠である阿武松親方(益荒雄)の教えに忠実で、1日に70番の猛稽古をこなした。その努力は誰しもが認めるところだった。そんな阿夢露だったが、2回3回と大怪我して苦しんだ。そこからリハビリして這い上がってきたことも魅力だった。
そんな阿夢露と仲が良かったのが、鐡雄山と慶天海であった。この3人とよく食事に行った。鐡雄山はいつも宴会幹事を務めているような世話人タイプだった。とてもとっつき安く、話題も豊富で話しやすい方だった。パーティーでビンゴゲームに興じる際は、ビンゴを達成していなくても「あゝ、もう大丈夫🙆」と、向こうから景品をくれた。力士としては幕下の優勝決定戦に出たことはあるが、関取にはなれなかった。そして慶天海。3人の中では最も若く、最後まで現役生活を頑張った。力士生活は埼玉栄高校を卒業後16年の長きに渡った。ボロボロの身体に鞭打っての猛稽古の末の、34歳での引退である。取り口は四つ身の業師タイプだった。頭をつけて前ミツを引いて食い下がる、しぶとい相撲だった。アマ相撲で鳴らした父親譲りの出し投げは見事だった。しかし十両に上がった場所の2日目で、膝に大怪我。5場所連続休場の後に、十両復帰のチャンスは何度かあった。しかし目と鼻の先で実らなかった。中でも東幕下筆頭で、千秋楽に行司軍配を受けたものの物言いがつき、軍配差し違えとなって負け越しという不運もあった。結果的に十両在位は1場所だけとなった。3人の中では最も寡黙だった。けれどもその人徳で、多くの方々に慕われていた。
前置きが長くなったが、慶天海の断髪式は錦糸町「東武ホテルレバント東京」で開催された。ものすごく広い会場に驚愕。紀伊國屋書店の帝国ホテルでの新年会より大きな会場だった。始まってみて、その理由がわかった。阿武松部屋の慶天海というより、むしろ埼玉栄高校OBである慶天海の断髪式であった。だから力士の出席者がすごい。通常なら二所ノ関一門の参加だが、一門を越えた面々であった。現役力士の関取衆は、貴景勝、琴櫻、大栄翔、明生、翔猿、英乃海、北勝富士、琴勝峰、王鵬、剣翔、妙義龍、豪ノ山、大奄美、北の若、紫雷。もちろん阿武松部屋の阿武咲と阿武剋もいた。親方衆では、阿武松親方(大道)はもちろん、武隈親方(豪栄道)、井筒親方(明瀬山)。もはや角界オールスター。興奮して酒も飲まず料理も食べずで、ずっと力士たちにお願いして写真撮影。興奮していたのか、貴景勝・琴櫻・大栄翔など大物の写真は、ボタンを押し忘れていたようで、結果的に撮れていなかった。しかし同行のハッシーが、ツーショットを撮ってくれていたので救済。撮って撮られた枚数を数えてみたら107枚。そりゃあもう飲食している時間も惜しい。以前の栃ノ心大関昇パーティーの時にも、力士たちのみならず相撲アナまで、嬉々として写真を撮りまくっていたら、春日野親方(栃乃和歌)に「筋金入りの相撲好き」と評され、当時の徳間書店の社長に「あんた本当に今日は楽しそうだね」と笑われたものだった。
出身地である奄美大島からも大勢の応援団。鎌田・瀬戸内町長をはじめとして、友人や親族が続々。ちなみに明生や大奄美は奄美大島出身。奄美大島は相撲処で、出身力士も多い。鎌田町長自身も相撲指導者であった。芸能人も参加で、落語家の桂文福師匠が落語甚句。同郷の歌手・城月南(きづきみなみ)による本格的な歌声。尚、あまりに写真を撮り過ぎたので、断髪式の写真は明日に第2部とする。