開幕戦連敗から思い起こす2つの敗戦シーズン
2022年NPBプロ野球開幕は、BIGBOSS率いる北海道日本ハムファイターズが6連敗、開幕前に今期限りの辞任を表明した矢野燿大監督率いる阪神タイガースが8連敗。いずれの監督にも野球解説者あたりからは批判非難があるが、結果はシーズンオフにこそハッキリする。成績は良いに越したことはないけれど、強すぎて面白みがないことで興行収入や観客動員数を大きく減らした名監督もいた。それはともかく両チームの果てしない泥沼の連敗を見て、思い出した二つの敗戦の歴史。以下二つのどちらかがシーズン最多敗戦記録かと思っていたが、実際には1961年に近鉄バッファローズの36勝103敗1分だった。監督は千葉茂が更迭され、後任に別当薫。
1️⃣球界黒い霧事件が発生して、西鉄ライオンズに激震が走ったのは1970年だった。当時の監督は中西太→稲尾和久。コミッショナー委員会裁定による処分の結果、計6選手が抜けるという事態。中でも永久追放の3人に、球界を代表するエースだった池永正明投手(写真左)が入っていたことは、日本中がショックを受けた。後の調査で池永投手はお金は受け取っていたが、八百長には手を染めていなかったそうだ(永久追放から35年後の2005年に日本野球機構は池永正明に対する処分を解除)。主力投手がゴッソリいなくなった西鉄ライオンズは、自分の記憶では河原明投手が連日連夜投げ続けていた(実際に記録を調べると1970年入団の三輪悟投手と柳田豊投手、1971年に入団の東尾修も登板)。来る日も来る日も同じ投手がマウンドに上がらざるを得ないという光景が悲しかった。1970年は43勝78敗9分、1971年は38勝84敗8分だった(意外にも負け数では歴代20位(91敗)の外にいる)。結局1972年には西鉄に見放されて球団経営権を手放し「太平洋クラブライオンズ」となった。九州を代表する鉄道会社が手を引いたことは、九州出身である自分にもショックだった。
2️⃣東北楽天ゴールデンイーグルス」設立の2004年。オリックスブレーブスと近鉄バッファローズの合併によって生じた1リーグ制議論。ホリエモンの受け入れ問題が頓挫して、楽天の三木谷浩史社長が球団経営に乗り出したことで2リーグ制が維持された。ここでオリックスバッファローズは、旧2チームから欲しい選手だけを残して1チームを結成した。ということは半分の選手はクビ。必然的に東北楽天ゴールデンイーグルスは残った選手を拾うことになる(正直『オリックスバッファローズは汚い』と思った)。唯一の例外が義父・広橋コーチを慕う岩隈久志投手。彼はオリックスバッファローズを拒否して、東北楽天ゴールデンイーグルスを選んだ。創立1年目の監督は田尾安志(写真右)だった。開幕戦は岩隈投手の完投で勝利したものの、第2戦では最大得点差記録となった0対26という大敗を喫した。岩隈投手以外の戦力不足はいかんともしがたかった。おまけに田尾監督は花粉アレルギーで、負けに打ちひしがれ、花粉症で鼻水と涙にまみれて、観ていてお気の毒だった。シーズン通算成績は38勝97敗1分で、100敗を免れるのがやっと。負け数では歴代5位だった。翌年から野村克也に監督が代わり、田中将大投手をドラフト1位指名で獲得した。以後は徐々にチーム事情は好転。