沈むふたり
朝ごはんを片付けたあと、鼻にしみついた食材と油、塩分の香りを覆うように、ファンデーションの甘い香りに沿う。乾燥した唇に、いつもより鮮やかな赤を描く。
鏡に映ったわたしは、老いと若さのあいだで揺れている。少しだけ弾力を失った耳たぶに、十年前の誕生日にもらった小ぶりなパールのピアスをつけたら、目じりが熱くなった。
「できたか」
リビングのソファに座ったあなたは、じれったそうに足を組み替えて訊いてくる。もうスマートフォン上の薄い情報のチェックも終わり、特に何もやることがないようだ。だったら皿でも洗ってよ、なんてことを思い描いてやきもきしたのはいつ頃までだったか。
久しぶりに共に玄関を出ると、日曜を歓迎するようなうららかな初夏の日差しが降り注いでいる。家のサイドスペースに駐車したセダンの助手席に乗り込む。清潔好きなあなたに磨かれたこの車の後部座席に、子どもを乗せる日は来なかった。だからこの車は二人だけを乗せて発車する。
カーナビに入れた住所は、家から1時間半程度の場所だ。印刷した予約ページを何度も確認し、入力後もひざの上に乗せておく。
「空港の近くだよな」
気持ちよさそうにハンドルの凹凸をなでながら、あなたは独り言のようにつぶやいた。あなたのほうから話し出すなんて、珍しい。今日は上機嫌ね。
「そうね。工場か倉庫みたい。直接、在庫を販売するんですって」
一週間前、私はパソコン画面をにらみながら、『ベッド セール』と検索していた。新婚当時に購入したダブルベッドは経年劣化でみすぼらしくなっており、一日を安らかに終えられる場所ではなくなっていた。何よりも、あなたと私、二人が同じベッドの上にいることの意味が、もうないのだ。それはお互い認識しあっていることだった。
子どもが生まれることを前提に構えた一軒家の間取りは、今後の二人暮らしに向けて二人用にレイアウトしなおしてしかるべき時期だ。そう気づく前から、流れる年月のなかで徐々に私たちのスペースは分断されていた。お互いの自室があり、そこにないのはベッドだけだ。眠るときだけ同じ場所に集うほうが不自然だったのだ。
でもいつだって、こういう暮らしのこと、生活のことを動かすときは、私から言い出さなければならない。私にとって、「ベッドを分けよう」と提案することは、何かとてつもなく大きな出来事のように思えた。だからずいぶん悩んだ期間が長い。
先日、二人分の給付金が入金された。蔓延するウイルスとは無縁の仕事に就くあなたと、その稼ぎに頼りながらゆるゆると趣味のエッセイなどを書くだけの私にとっては、生きるための金というより、ボーナスと感じる入金だ。
「ベッド、買い替えましょうか」と、私はほうれん草の煮びたしに箸を添えながら、小さく提案した。あなたはテレビのニュースに目を留めたまま、「おう、いいと思う」とうなずく。
私はきゅっと葉の濃い緑をつかむ先端に力を込めながら、「がんばれば、二つ買えるかも」と小さく付け足す。あなたはこちらに目を戻した。私は箸の先に全神経を集中させる。
「ああ、セールがあるなら、いいかもな」
その答えを聞いて、深く息を吐いた。その夕飯のあと、私は着々と部屋の尺を測り、シングルベッドがそれぞれの部屋に入る算段を立てた。そしてインターネットをくまなく調べ、地元のベッドメーカーの在庫処分セールを見つけたのだ。予約制で、現物を確認してから購入できる。
道路を走る車が徐々にトラックになっていき、殺風景な平地に大規模な工場がぽつん、ぽつんと建つエリアへと入っていく。「ここらへん、全然来たことないな」とあなたがやけに話しかけてくるから、「そうね、ビール工場ってここにあったのね」と目に留まるものを話題に出す。「たしか見学コースなんてあったはずだよ。飲むばっかりで興味なかったけどさ」、「そうねえ、ビールってどう作られるのかしらね」。
あなたは正面を見て、私は助手席の窓を見る。目が合うことなんてないけれど、同じ方向に走り続ける小さな箱のなかで二人きりなのが、なんだか不思議だ。
さびれた大きな倉庫に、カーナビ通りの時間に車は到着した。広々とした駐車場から入口へと向かえば、『在庫限りの大セール』と筆文字で書かれた旗が並んで北風にあおられている。
受付のふくよかな女性スタッフは、やわらかな笑顔で「ようこそ」と声をかけ、「きっとお二人にぴったりのベッドがありますよ」と加えた。二人別々のベッドを探しているのは、不自然だろうか。申し訳ない気持ちになってくる。
体育館を何個も並べたような広い倉庫に、等間隔でベッドが並べられている。天井も高く、来場者の声はどれも反響し、ささやき声のように波打つだけだ。部屋のなかでは存在感の大きいベッドが、この場ではまるでマシュマロのように見える。
どれも同じに見えるベッドが並ぶ通りを、私たち二人は圧倒されながらゆるゆると歩いていた。何を基準にこれらに興味を持てばよいのか、まるでわからない。
「どんなベッドをお探しですか?やわらかめ、かための好みなどは……」
私たちの戸惑いを察してか、初老の男性スタッフが声をかけてきた。
「え、やわらかめ……?」
私はそもそもシングルかダブルかの選択肢から始まらなかったことにびっくりして、おうむ返しするにとどまってしまった。
が、あなたは「僕はやわらかいのが好きですね」と、やけに明朗な声で返す。あなた、そんなベッドの好みなんてあったの?私は思わずその顔を確認してしまう。相変わらず無表情だが、目元は何やら楽しそうである。
「さすがです。硬めが好きとおっしゃるお客様が多いのですが、やわらかいほうが体の凹凸に合わせてくれて、いいんですよ」
スタッフの方は人懐こい笑みを浮かべて、饒舌に語りながらベッドの間を軽やかに歩いて私たちを案内する。
「それに、硬いベッドは経年でバネがダメになってくると、非常に眠りづらくなる。はじめのころは心地よいものが、長年使うと全然違うものになってしまうわけです」
そう続けながら、慣れた手つきでシンプルなウッドフレームのダブルベッドへと私たちをいざなった。『試しに横になってください』という看板を指して合図されるが、私は戸惑い、立ち止まる。一方あなたは、まるで自分の家のベッドかのように心置きなく全身でダイブした。
「おお、こりゃあ、いい」
寝転がったあなたの胸が深呼吸して、大きく動いた。
「おまえも、寝てみなよ」
隣のスペースをぽんぽんとたたかれて、私は周囲を気にしながら、そっとそのベッドに腰を下ろす。ロングスカートなので下の心配はないが、人目につく場所で寝転がるというのは、どうも落ち着かない。だが、この会場では、幾人もの客が同じようにベッドに寝転んで歓声を上げている。恥ずかしがることでもないのか。
私はゆっくりと、ベッドに体を預けた。背骨、お尻の肉、ふくらはぎの重さや形が、すん、とベッドに沈む。あたたかな海。やわらかいシーツの糸と糸の間に呼吸を感じ、まぶたが自然に、落ちそうになる。
「すごい、なにこれ、やだ」
私の口からは、無意識に幼い言葉が零れ落ちる。遠く見える鉄骨丸出しの天井が現実を見せていなければ、この場で眠ってしまいそうだった。
「すごいよな」
あなたは、まるで少年のように笑いながら同調してくる。いま、同じものに触れ、同じものに沈み、私たちは同じように感動したようだ。それがやけにくすぐったくて、私の胸のなかは綿毛で撫でられたような心地だった。
スタッフの方は満面の笑みで大きくうなずき、「そうでしょう、そうでしょう」と、私たちが起き上がるのをサポートしてくれた。
その後、いくつかのベッドに寝転がる体験をさせてもらい、柔らかさの違いが寝心地にどのように影響するか、ブランドによってどんなこだわりがあるのかなどを解説してもらう。私たちは、その一つひとつに耳を傾けながら、体を預け、どれが良いか議論した。
あなたは几帳面な性格だから、何度も二つのベッドを比較して寝転がったり、寝相による影響なんかを質問したりしていた。私は途中から、まるで同じベッドに寝ることを前提に話が進んでいるようで、そこにばかり意識が向いていた。ここにあるベッドなら、どれでもきっと幸せに眠れるだろう。けれど私にとっての問題は、シングルかダブルかなのだ。
ただ、こんなに楽しく二人で何かの商品を選ぶ体験なんて結婚以降初めてかもしれなくて、私はこの空気を壊したくはなかった。このまま流れでダブルベッドになったのなら、またそれはそれでしょうがないのかもしれない。
「僕はこのベッドがいいな。いろいろ検討したけれど、これ」
あなたが大変満足した様子で、はじめに寝転がったウッドフレームのベッドを指さした。このままいけば、やはりダブルベッドを購入することになるのだろう……。私が愛想笑いでうなずこうとしたとき、スタッフの方が当然のごとく、パンフレットを指しながら訊いてきた。
「では、シングルとダブル、セミダブルがご用意できますが、どれになさいますか?」
そして、あなたは私の目をまっすぐに見つめて、問いを重ねる。
「シングルがいいなら、おまえも一番好きなベッドを選びなよ。ダブルがいいなら、一番好きなのを教えて。それがお互い別の選択なら、いったん考えよう」
耳元で、パールのピアスが揺れた。
私には、たくさんの選択肢がある。もしかしたら、もっと前からあったのかもしれない。でも、それを二人で話さなかっただけかもしれない。
「……どっちが、いいのかな。シングルと、ダブル」
あまりにも長すぎた二人の沈黙の時を思い返すと想いがあふれ、私の心はこんなに些細な決断からも逃げてしまった。もはや私が悪いのか、あなたが悪いのかなど、問う気はない。ただ、私は私の確固たる意志など、どこかに置いてきてしまったのだ。
あなたは、私の戸惑いを受け止めてくれているようだった。私の問いにすぐ答えることなく、いや、きっと答えられず、その視線を困ったようにスタッフの方へと譲っていく。
スタッフの方は、私たち夫婦の間に流れる空気をいとおしげに見つめたあと、ベッドの説明をするのと同じ口調で、やさしく説いた。
「人生で一番長い時間は、睡眠時間だそうです。よく『どう生きたいか』なんて問いを掲げる方を見かけますが、『どう眠りたいか』は、なかなかみかけませんね。不思議です。……夫婦の場合、共に生きることは難しくても、共に眠ることはできると、私は思います」
その言葉に抱かれ、あなたと私は見つめあい、やがてパンフレットに目を落とす。そして、流れるように指さしたのは……。
「セミダブル」
あなたは、私の顔をおどろいたように見つめる。私は自信に満ちた目で見つめ返した。
「ダブルだと、大きすぎて離れてしまうから。セミダブルがいい。あなたの選んだブランドで、私が選んだサイズ。これで決まり」
あなたはくすぐったそうに笑って、こくんとうなずいた。
二週間後。
待ちに待った、連休初日だ。午前中に業者が入り、古いダブルベッドを回収していった。部屋の大半のスペースを占めていた存在がぽっかりとなくなり、部屋はひととき、深呼吸をする。
私が掃除機をかけ、あなたはその後ろから雑巾をかけた。「あら、やってくれるの」とおもしろがって声をかけると、「今までやらなかったね、ごめんね」と、あなたは居心地悪そうに早口で応える。清潔好きだから、いざやってみれば私よりもきれいに部屋を掃除する。おかげで、午後のその時を迎える前に、寝室はみちがえるように美しくなった。
次にチャイムが鳴ったとき、私たち二人は顔を見合わせてうなずいた。ベッドの骨がいくつにも分けられ、家に搬入される。手際のよい業者の手によって、私たちが選んだベッドが組み上げられていった。時間にして一時間ほどだろうか。先ほど丁寧に準備した空間に、一回りだけ小さくなったベッドが、居心地よさそうに収まる。
作業が終わり、すべての搬出が終わったあと、家には私とあなた、二人が残された。あなたはあのセール会場で見せたような少年のような笑みを浮かべ、寝室へと向かう。私もその笑顔につられて、後ろをついていく。
新しい木の香りがするベッドに、二人で同時に、ばっふ、とからだを預けた。やわらかく、沈み込む。朝から動いていた全身の筋肉がベッドに沈んだ瞬間ゆるみ、やわらかなシーツが二人の体重を歓迎していた。
「ああ~きもちいい!」
私は大きくその歓声を吐き出して、息を吸い、吐く。そうして、気がつく。あなたの呼吸が、マットから伝わってくる。あなたの温度が、隣からそっと触れてくる。
「セミダブルって、意外とせまいね」
頬が熱くなるのを感じ、照れ隠しの一言を加えると、あなたは「自分で選んだくせに」と笑う。
脱力した右手の小指に、あなたの無骨な左手の指が、触れる。第一関節に少しだけ力を入れると、すべりこむように、指は絡み合った。指と指の間、お互いの意志のもと、埋まっていく距離。少しだけ汗ばんでいて、十年前より少し硬くなった、お互いの皮膚の隙間。流れ込んでくる想いが、血管を流れ、やがて心臓にぬくもりを運んだ。
私はつないだ手から満ちる安堵に抱かれ、まぶたを閉じる。目じりから流れた一筋の涙は、新調したまっさらな枕へと落ちていくのだった。
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本作品は、岩代ゆいさん主催の私設賞「#触れる言葉」にエントリーしています。
おそらくコンテストが意味するところの“触れる”とは少し違う解釈だなと自覚はしているのですが、私が愛する“触れる”を描くために、“触れていなかった時間”を描きました。“気持ちよさ”は、深く、時を経て訪れるもの。そう信じる私の願いも込めて。岩代さんに本作品を贈ります。