身体についての覚え書き
バスに乗る。車窓を眺める。通り過ぎる居酒屋の中に、巨大な白いふわふわの犬がいる。それを眺める。その一瞬を切り取り、記憶する。
わたしは歩いている時、乗り物に乗っている時、もちろん外を眺めてはいるけれど、こんな風に(この日記の筆者のように)風景を分節化して取り出して記憶する、ということを全くしない。この間大きな家電量販店をぐるぐると無為に歩き回る時間があったのだけど、「何か面白い家電あった?」と聞かれ何一つ答えられない自分に驚いた。でもそう。わたしは周りの風景をひとつも見ていない。物質的な風景に奥行きがないし、手触りがない。現実感もない。もちろん見えてはいるけれど、ものすごく意識しない限りは頭や心になにも残さず、淡々と過ぎ去っていく。そういう風な関わりの仕方で、わたしは世界に存在している。
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これはきっと、わたしに身体がないからだろうと思う。わたしには、身体がない。あるんだけど、ない。身体は心の容れ物で、いつだって心が身体を引きずって歩いている。物体に宿った思念には興味があるけど、手ざわりや温度には興味がない。暮らしがない。頭の中は文字でいっぱいで、わたしはいつだって身体から抜け出たいと思っている。わたしとあなたの魂が直接触れ合えたらどんなにいいだろう。
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数日前、シャンタル・アケルマンの『家からの手紙』という映画を観た。故郷の母からの手紙を読み上げながら、ひたすらにニューヨークのさびれた街並みが映されていく、そんな映画だった。わたしはやっぱり風景よりテキストに馴染みがあるから、母からの手紙の内容に心を惹かれるし、あれこれと想像をしてしまう。画面に映される風景は(わたしにとっては)本当に退屈で、道端で煙草を吸う人、どこかの店のショーウィンドウ、さびれた道路、水を撒く子供、そういうわたしなら一瞬で忘れてしまうような、気にも留めない風景たちが(わたしにとっては)長すぎるくらい映され、移り変わっていく。電車の車内やそこから見える風景をただ映すだけの長いカットとかほんとどうしたらいいかわかんなくて、自分が電車に乗っている時のように全然違うことを考える。身体がある人なら目の前の乗客の動作に見入ったり、車窓から見える何かを目に留めたりするんだろうか。でも時折妙に頭に残る風景があり、手紙を読み上げる声は街の雑踏に掻き消される。風景とテキスト、身体と心の境界線がゆらりと揺れる、不思議な映画体験だった。
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少し前、味園ユニバースにライブを観に行った。座席も寄りかかれる柱もないライブハウスは自分に身体があることを思い出さざるを得ず、身体の取り扱いに困ってしまうから苦手だ。でも、その日は自分に身体があることがうれしかった。初めてライブハウスでお酒をおかわりして、隣には初めて会った人がいて、ひさしぶりにお酒を飲んだせいでまっすぐ歩けないくらい酔ったけど、それが良かった。うねるベースと踊る人たちと真っ赤な照明。踊ったり酔ったりできる身体があって、楽しかった。身体があってよかったと思った。そういうこともあった。
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この夏は、とにかく身体が動かなかった。1年近く人の上に無差別に爆弾が落とされたりするニュースを見続けていたら、身体が動かなくなった。もうだめだと思って実家に帰り、毎日信じられないくらい眠ったり扇風機の風で涙を乾かしたりした。去年の夏、地元の美術館に観に行ったアルフレド・ジャーの展示を思い出す。「ヒロシマ・ヒロシマ」と題されたその作品は、ドローンで撮った広島市街の映像を流した後、大きな送風機で鑑賞者に向かって風を送るようなものだった。「核の危機」を表現したかった、というようなことがキャプションに書いてあったと思う。暗闇の中で爆音と共にわたしの身体に吹きつけてくる風。本当に、怖かった。わたしの中で「戦争」というものが、その恐怖がハッキリと手触りをもって立ち現れた、そんな瞬間だった。
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わたしにとって身体について考えることは、自分自身のセクシュアリティと向き合うことであり、人との関係の仕方に向き合うことであり、孤独に向き合うことだった。これらは全部、わたしという人間を生きるためにはとても重要なトピックだった。結果的に、そうなった。
「わたしってどうやら身体がないらしい」と気付いてからというもの、身体を起点に日々色々なことを考え、わたしと身体の関係は日々変化した。映画をよく観るようになったのは一つ大きな変化だったように思う(映画は身体的なものだと思っている)。わたしの身体は誰とも共有不可能で、だからこそ身体について語る言葉もきっと共有不可能で、この文章も大半の人には意味がわからないのだろうと思うとおそろしい(言葉足らずというのももちろんあるが)。身体にまつわる断片的な記憶をもとに、今のわたしと身体の距離や関係を残してみたかった。身体は別にいらないと今は(今も?)思っているけれど、涼しくなったら街を沢山歩きたい。
文:村上
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これは以下の企画5日目の記事です。
https://note.com/yadorigi0520/n/n0930ba15f931?sub_rt=share_pw
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