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ロシア人との会話
先日ウルグアイ人の師匠の愛と平和のマッサージ修業に行ったら、同業者の偉そうなおっさんが来た。
はっきりいって私は偉そうな人間が嫌いだ。しかも弟子の私の前で師匠を馬鹿にするような態度だったので私は怒り心頭。
師匠は誰に対しても愛を持って接しなさいと言うけれど、
「自分を偉く見せようとする人間がイキッて周り巻き込んで戦争起こすんだよ!!!!!!」
とキレ散らかした。
そしてそれと同時に師匠の偉大さも再確認。だてに「愛」「愛」言ってないというか、師匠は一人一人に敬意をもって体も扱う。私みたいに偉そうな人間に「去ね!」なんて言わんし、そういう時は「私に近づかないでください」と言って距離を取るればいいと私に教える。
ほんと一人一人が国とか人種とか関係なくお互いに敬意を持って接することができれば戦争なんて起きないんじゃないかと思う。
さらに私は人に対して無関心なポーズを決め込む人間も嫌いだ。
松岡修造六人分と言われるぐらいの熱血教師でありOKB(おせっかいくそばばあ)48な私は、人のことでは熱くなる。
だから前にバイトしてた店の若いもんらに
「そんなに人のことで怒ったり熱くなったり、つかれませんか笑」
みたいに気だるげクール気取りなポーズ取られた時は
「うるせー! そうやって人に関心持たないから想像力も働かせられんと思いやりが欠如するんじゃぼけぇ!」
と叱り、
「どうせ、言ってもわかってもらえませんよ!」
と背を向けて逃げる若者は「待てゴルァ!」と追いつくまで追いかけ
「腹割って話そうやぁ!!!!」
となる昭和ソウルである。
そんな感じなもので、仕事柄外国人の若いもんにも熱くおせっかいに接することが多い。
ロシア人のブジンもそのうちの一人で、彼は日本でバイトしてた店で知り合った外国人だ。
超ブラックな店なのでなかなかバイトも定着せず、日本語学校の斡旋で外国人が来るようになった。
これは自分のところの学生にも言っているけれど、日本語学校の紹介の店は工場の早朝バイトとかわりときついのが多い。
モスクワ大学を出てインテリで育ちの良い彼は、動作もどんくさくて、クソ忙しい飲食店でまるで優雅に茶道でもやるかのような動きだった。
もともと友達が多いタイプでもなく、一人が好きという彼だったが、私は雨の支笏湖やアイヌ博物館など、彼の行きたいところに連れて行ってやったりもしていた。
そんな彼が最近のお国事情でたいへんだったってのは以前の記事にも書いた。
その後の話。
ブジンからは時々忘れた頃にLINEが来る。
まあ私も「ちゃんと食べてるか?」「仕事はどうだ?」と、父親や母親が言いそうなことを聞いたりもしている。
国のことも話したりする。
だいぶ前にはこんなこと言っていた。
しかし最近リアルにブジンの友だちや兄弟が召集され始めた。
自分の息子が戦地に行かされるかもしれないとなったら、そりゃ母さんたちも必死に反対する。
じゃあ、今まで我関せずだったのかというと、それは仕方のない事情もある。
無関心でいることを彼も決してよしとは思ってはいない。
ソ連時代を知る祖父母に「無関心は悪だ」と彼は言われて育った。
ブジンはこの戦争は自分にも責任があると言う。
反対の声をあげなかった者たちは賛成しているのと同じだと。
今起きていることを嘆くより、どうしてそうなったかを追求することに意味があるという。
ただ彼はもう国には戻らないと言っている。
たとえ召集されても絶対に戻らないと決めている。
私は彼が日本に永住を希望しているのが少し不思議だった。もう何年もロシアに帰っていない。お母さんは寂しくないんだろうかと思ったりもした。
でもプーチンを支持しないことを表明しているお母さんだからこそ、息子を早く日本に行かせたかったのかもしれないし、今は息子が日本にいてよかったとほっとしているかもしれない。
ロシアのカードがブロックされた時、私がビザ申請の費用を貸さなければ、今の会社に入れなかったし、ほかに探している時間もなかったから、きっと帰国していただろうとブジンは言う。
友達が戦地に行くのは嫌だし監獄に入るつもりだと言っているのを聞いて、自分もそうなっていたかもと思ったのかもしれない。
あの時自分がしたことは本当に大したことではないのだけれど、あれでブジンの運命が変わったのかと思うと、まあよかったなと思う。
結局、目の前の相手に対して自分ができることをするしかない。
それがたった一人に手を差し伸べるだけのことだとしても、目の前のに人に関心すらもたなくなってしまうような世界はあまりにも寂しいじゃないかと思う。
師匠が私に伝授しようとしている「愛のマッサージ(エロい意味ではない)」の「愛」は日本人の自分にはちょっとピンとこない単語だけれど、無関心の反対が「愛」ならば、私は目の前の人に関心を持って、熱く誠意をもって接していきたいと思うし、それが私なりの「愛」だと解釈している。
だからうっとうしがられても私は人との距離を縮めていきたい。
困ったときに助けてと言われやすいぐらいの距離にいたい。
相手が頼りやすいように自分も相手に気軽に頼れる関係でいたい。
人に頼らない人間は頼りづらいし、完璧に見える人間に悩みは打ち明けにくいもの。だから私は自分をさらして生きていく。傷つくことがあっても、懲りずに人に関わろうと思う。
最後は照れ隠しに昭和の熱い男「慎吾ちゃん」で会話を切り上げるのであった。