
#640 忘れない男
「そうなの!俺ね、タバコだけは忘れたことない!俺結構忘れ物とかするんだけど、タバコだけは絶対右ポケット入ってる!」
「へえ、そうなんだ。」
閉店間際の居酒屋で男と女が話を続けていた。
「あ、あとイヤホンね!イヤホンも絶対忘れない!音楽聴きたい欲強すぎて、絶対忘れないの!俺音楽ないとマジで無理でさ…」
男は話ながらグラスを傾けたが、中には氷しか入ってなかった。
「あ、すみませーん!」
「ハイ。」
中国人の店員がやって来た。
「レモンサワーもらっていいすか?」
「あ、もうラストオーダー終わっちゃたよお。」
「あ、そうなんすか!じゃあ大丈夫です!」
店員は厨房に戻っていった。
「で、そう!俺さ、音楽ないとマジで無理でさ!イヤホンは絶対左のポケット入ってて。でもそうだ一回、イヤホン持ってるのに携帯忘れて結局音楽聞けないことあったわ!はははははは!」
「あ、はは。」
「ゆみちゃん音楽好き?」
「あー、まあ。」
「え、なに?どういう系聞くの?」
「まあなんか最近流行ってるやつとかかな。」
「あー、そうなんだ。俺流行りの曲あんま聞かないんだけど、昔の洋楽とかが好きでさ。そう。だから今年の夏さ、フェス行こうよ!行ったことある?フェス。」
「あー、ないかな。」
「行こうよフェス。8月とかって休みどう?」
「あー、どうだろ。まだわかんないかな。」
「まあそうだよね。」
2人が話していると店員が伝票を持ってきた。
「お会計、いい?」
「いくらっすか?」
「4320円。」
「あ、じゃあペイペイで。」
「うち、現金だけね。」
「あ、そうなんすか。やべどうしよ。財布に金入ってないわ。ある?」
男は女に尋ねた。
「うん。」
「一旦いい?」
「あ、うん。」
女は店員に金を払った。
「はい、ちょうどですネ。ありがとうございました。」
店員はお辞儀をしてからお金を持ってレジの方へと向かった。
「いやー、マジごめん。お金下ろすの忘れちゃっててさ。俺すぐ忘れちゃうんだよ。現金使わないからってのもあるんだけどさ。マジ忘れちゃう。タバコとイヤホンだけ絶対忘れないのにね。なんなんだろマジで。ゆみちゃんもさ、意外と忘れ物するタイプっしょ?」
「え、どうかな?あんましないかも。」
「あ、そう?じゃあ相性いいかもね俺ら!忘れ物多い人と、忘れ物しない人!いやマジでね、俺びっくりするぐらい忘れ物多いから今後ビビると思うよ!特に自転車の鍵はマジ無くす!でもタバコとイヤホンだけは絶対忘れないの!」
話し続けている2人のテーブルに中国人の店員がやって来た。そして手に持っていたコイントレーで男の後頭部を思い切り叩いた。
「早く帰れよおおお!!!!」
「……え?」
「もう閉店時間とっくに過ぎてるだよ!早く帰れよ!締め作業できないだよ!」
「いや、ちょっとなにしてくれてんすか?」
「それはこっちのセリフだろが!なにしてくれてんだ!早く帰れよ!」
「いや、違うんですよ。」
「なにも違くねえだろ!」
「違う、店員さん!聞いて!」
男は小声になった。
「今日、マッチングアプリで知り合った子で。この流れで終電無くなればこの後あるかも知れないから駆け引きしてるんでしょ?わっかんないかな?」
「お前に脈ねえから!!!!」
「は?」
「お前、この子ゼッテー無理だから!おねさん、任せて!私があなたの代わりに全部言ってやるからね!この忘れ物男に!」
「忘れ物男ってなんですか!」
「お前のことだよ!忘れ物の話今日何回するだよ!」
「は?盗み聞きしてたんですか?」
「そういうわけじゃねえよ、聞こえて来ちゃうんだよ!お前この店来てからずっと忘れ物の話しかしてなかったよな!タバコとイヤホンだけは忘れないとかマジで知らねえから!」
店員は男のポケットを交互に叩いた。
「こっちがタバコでこっちがイヤホン!もうそれも覚えちゃたよ!ふざけるなよ!」
「いや、店員さん側からだと逆ですね。」
「知れねえよ!うるさいだよお前!早く帰れよ!」
「いや、マジで待ってください!もうちょい待てば終電無くなるんで!」
「無理だって言ってるだろ!この子も早く帰りたがてるよ!そうだよね?早く帰りたいよね?」
店員は女に尋ねた。
「いや、私楽しいんでもっと一緒にいたいです。」
「え?いやいや忘れ物の話朝まで聞かされるよ?いいの?」
「一生懸命話してくれて可愛いじゃないですか。」
「………日本人、むじー!」