なぜ、安倍晋三なのか(2)(情報の読み方)

なぜ、安倍晋三なのか(2)(情報の読み方)

 あまりにばかばかしいので書くのをやめようかと思ったが、このばかばかしさは書かずにおいたらきっと問題になる。
 2022年01月03日読売新聞(西部版・14版)の4面に、「語る新年展望」の2回目。だが、ノンブルは「1」のままである。そして、なんと「1日掲載の続き」とカットの下に注釈がついている。これはほんらい、1面に「頭出し」があって、そのつづきであることを知らせるためのものである。「1日掲載の続き」ならば「2」になるはずである。1日の紙面で1面に「頭出し」(といっても、分量から言うとトップ記事になるはず)をして、それを4面で受ける。それが、どういう理由かわからないができなかった。しかし、同時掲載ができなかったらできなかったで「2」にしてしまえばいいのに、それもできないので「1日掲載の続き」になった。
 背景には二つの理由がある。
①1日の紙面会議で1面トップを何にするかで、編集局内で対立があった。1月1日の1面トップというのは、当日決まるというよりも、綿密に準備するのがふつうである。安倍のインタビュー記事で決定済みのはずだった。それが当日の局デスクが反対し、4面掲載になった。
②しかし、取材側(聞き手 編集委員・尾山宏)では「1面トップ」(4面に連動)ということで、安倍と話をつけてきた。それが急遽変更になったために、連載の2回目を「2」にするのではなく、あくまで「1」であることを強調するために「1日掲載の続き」とことわりを入れる。なぜか。「2」にすると、1日の新聞を読んでいない読者(元日に政治面まで読むような読者は少ない)は「安倍は2番手か。1番手はだれだったのだろう。(やはり、安倍はもう過去の人なのだ)」という印象を持つ。これではいけない。安倍への「約束違反にもなる」。だから、なんとしても「1」であることを印象づける必要があったのだ。
 ここからわかること。
 読売新聞内部にも「安倍晋三信奉者」以外の人間がいる。しかし、それは完全に「安倍信奉者」の勢力を上回っているわけではない。「安倍信奉者」の勢力は、新聞の「体裁」の変更を要求し、押し通すだけの力を持っている。連載を「2」にしても何の問題も起きない(少なくとも、読者は、また安倍のつづきかと思うだけである)のに、「印象操作」にこだわり、それを押し切るだけの力を持っている。
 これは、日本の政治の「先行き」を予測する上で、とてもおもしろいことだ。自民党内にも、安倍ではだめだという勢力と、やっぱり安倍でないとだめだという勢力が拮抗しているのかもしれない。読売新聞は「安倍でないとだめだ」に肩入れし、その方向で「印象操作報道」を試みていることになるのだが、たぶん、他のマスコミもその方向に向かって動くのだろう。そして、安倍が「再々登板」をするという方向で動いていくのだろう。
 今回の記事の最後にこう書いてある。

 私の体調はだいぶ回復しました。ただ、薬の投与は続いており、完全に、というわけではありません。再々登板の可能性をよく聞かれますが、私が「もう1回挑戦します」と言ったら、みんな腰を抜かすでしょうね。それは考えていません。

 「再々登板」を一応否定する形になっているが、安倍が再々登板に挑戦するといえば、「みんな腰を抜かす」のではなく、「みんなから袋叩きにあう」というのが一般的な見方ではないのか。少なくとも私は「腰を抜かさない(驚かない)」。石を投げつけてやりたい気持ちになる。そういう人がいることを安倍は認識していないし、聞き手の尾山宏もきっとにこやかに「いやそんなことはありませんよ」と言いながら、記事の締めはこれでいいですね、というようなことを語ったのだろう。「みんなを驚かしてやりましょう。やっぱり安倍さんしか頼りになる人はいないんですよ」とかね。だからわざわざ「私の体調はだいぶ回復しました」と言わせてもいるし、それを印象づけるように、最後に語らせている。

 胸くそが悪いというか、腹が立って仕方がないというのは、こういうことである。今回の安倍の記事で読むべきことは、安倍の思想ではなく、安倍をよいしょし、まだ安倍に縋ろうとしているマスコミがあるということ、それはどういう報道の仕方をするか、ということだろう。
 読売新聞の姿勢が、非常によくわかる連載のスタートである。

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谷内修三
マスコミ批判、政権批判を中心に書いています。これからも読みたいと思った方はサポートをお願いします。活動費につかわせていただきます。