読売新聞の「作文」

2022年07月16日の読売新聞(西部版、14版)に安倍銃殺事件のことが書かれている。
 なぜ、容疑者は安倍を狙ったか。(番号は私がつけた。)
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①山上容疑者が理由として挙げるのが1本の動画だ。
 「朝鮮半島の平和的統一に向けて、努力されてきた韓鶴子総裁に敬意を表します」。昨年9月、民間活動団体「天宙平和連合(UPF)」が韓国で開いた集会で、安倍氏が寄せた約5分間のビデオメッセージが流された。
(略)
②安倍氏を巡っては、首相在任中から同連合とのつながりを指摘する声が一部にあった。そうした中、安倍氏が公の場で韓氏を称賛する動画が流れたことで、SNS上では安倍氏と同連合が深いつながりがあるかのような根拠不明な投稿が広がった。
(略)
③「動画を見て(安倍氏は同連合と)つながりがあると思った。絶対に殺さなければいけないと確信した」と供述する山上容疑者。安倍氏の殺害を決意したのは、昨秋のことだった。

④ビデオメッセージは、同連合と関わりがあるUPFが安倍氏側に依頼して実現したという。しかし、安倍氏が同連合の活動に直接関わったり、支援したりした事実は確認されていない。
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 ①から③までは、すでに何度も報道されていることである。容疑者の「動機」を語っている。安倍は、容疑者の家庭を崩壊させた統一教会と関係がある。だから、殺そうと思った。要約するとそういうことになる。
 そういう一連の報道を踏まえた上で、読売新聞は④以下の「作文」を書き始める。①から③までは、事実だが、④は事実ではない。「安倍氏が同連合の活動に直接関わったり、支援したりした事実は確認されていない。」と書いているが、そのときの「事実」とは何か。「事実」を確認したのは、誰か。
 「確認されていない」にはふたつの意味がある。
 調べたが「確認できなかった」と、「調べていない」である。
 読売新聞は、だれが、いつ、どのようにして調べたかを書いていない。つまり、「調べていない」のである。「調べていない」から「確認できていない」。これを「確認されていない」とあいまいに逃げている。この「確認されていない」は、主語を補って言えば「捜査機関によってか確認されていない」なのだが、それを捜査機関が調べない限り「確認されていない」はつづく。なぜ、捜査機関はそれを調べないのか、ということを不問にして「確認されていない」と言っても意味はない。
 本来ならば、なぜ、捜査機関はそれを調べないのかを追及しないといけない。そして、捜査機関が調べないことを、読売新聞が独自に調べ、「事実」を明らかにしないといけない。ジャーナリズムとは、そういう存在である。「権力」が捜査しないなら、自分たちで調べる。そこから「特ダネ」も生まれる。捜査機関が発表したことだけを、そのまま垂れ流していたのでは、捜査機関にとって都合のいい「情報」だけが流布することになる。
 ④では「事実」ということばもつかわれている。ここでいう「事実」とは何か。安倍はすでにビデオメッセージを送っている。それは「支援」ではないのか。私から見ると「支援」である。読売新聞は「安倍氏が同連合の活動に直接関わったり、支援したりした事実は確認されていない。」と書いている。この文章を補足すると「安倍氏が同連合の活動に直接関わったり、直接支援したりした事実は確認されていない。」。つまり、ビデオメッセージは「間接支援」であり「直接支援」ではない、といいたいのである。
 ここでは「直接」の定義が問題になる。「事実」の定義と同様に。
 こういう部分を厳密にせずに、雰囲気で「作文」している。ここに大きな問題がある。最初から、安倍は統一教会と無関係であるという方向で「作文」しており、それを論理づけるために「事実」とか「直接」ということばが、あたかも「客観的視点」を代弁しているかのようにつかわれている。
 「直接関係」「直接支援」、あるいはその「事実」とは、ではいったい何が想定されているのか。金をもらっている。その代償として安倍が動いている、ということだろう。金の動きが証明されない限り「事実」はない、というのが読売新聞の立場である。ビデオメッセージの代償として金が動いていれば、安倍と統一教会は「直接」関係している。金をもらってビデオメッセージを送っていれば、「直接」支援したことになる、という考えである。
 しかし、「金」というのは、現代では単純に「円(札束)」を指すとはかぎらない。金を動かさず、人員を無償で送り込み、活動させるというのは「金」の動きを隠すための「方便」である。「ボランティア」を装い、無償という「金」の流れをつくりだすことができる。安倍のビデオメッセージにしても「無償」を言い張るかもしれないが、なぜ、宗教団体に(私は悪徳商法団体と思っているが)、「無償」のビデオメッセージを送るのか。なぜ、その団体なのか。その団体を選んだ段階で、それは「直接支援」になるだろう。

この作文のあとで、読売新聞は、こうつづけている。
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⑤動画を見ただけで、安倍氏を殺害するというのは、動機としてはあまりにも不可解で、論理に飛躍がある。
⑥精神科医の片田珠美氏は「動画やSNS上の根拠不明な情報を見て、『怒りの置き換え』が生じたのではないか」と指摘する。
「怒りの置き換え」とは、元々怒りを向けていた相手にぶつけられず、他の人物に矛先を変えることを指す。
(略)
⑦片田氏は「容疑者は恨みの感情に長年とらわれ、相手を置き換えてでも復讐を果たさないと精神の安定が保てない状態に陥っていたのだろう」と推測する。
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 ⑥は読売新聞(記者)の考えである。記者には「動機」が理解できず(不可解)であり、「論理(動機)に飛躍がある」ように見えた。(私には、容疑者の動機も論理も、自然なことのように思える。合理的に見える。)
 読売新聞(記者)は、その「理解不能な論理」の説明するために、⑥のように精神科医の「分析」を持ってきている。代弁させている。精神科医も、こう言っている、というわけである。
 この手法は、なんというか、私には「墓穴」のように見える。
 もし容疑者が、⑦で精神科医(これが、問題)の指摘するように、「精神の安定が保てない状態」だったとしたのだとしたら、容疑者は裁判では「無罪」になるかもしれない。罪は問われないことになるかもしれない。安倍を擁護する一方、容疑者を裁けなくなる可能性が出てくる。
 読売新聞(記者)は、そこまでは考えずに精神科医を取材し、「作文」を書いている。ただ、安倍を擁護するためにだけ、記事を仕立てている。

新聞記事には、「事実」を書いたものと、「事実」というよりも「意図的な作文」がある。
 「事実」には、第三者(捜査機関、あるいは、今回のような精神科医)の調べたこと、主張していることがある一方、記者が独自に調べた「事実」がある。そのなかには、今回の「作文」のように、記者が独自に(単独で)精神科医に取材したもの(他社の記者が同席していたわけではないだろう)もある。
 この関係を見極めながら報道を読む必要がある。

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谷内修三
マスコミ批判、政権批判を中心に書いています。これからも読みたいと思った方はサポートをお願いします。活動費につかわせていただきます。