和辻哲郎の「正直」
私は和辻哲郎の文章が好きだ。なぜ、好きか。『桂離宮』のなかで、和辻はこう釈明している。さまざまなことを和辻は書いているが、
専門家の所説に基づいたところもあるが、主としてわたくしの現状から受けた印象によったのであって、歴史的に確証があったわけではない。
林達夫なら絶対に書かないことを和辻は書いていることになる。
「確証がない」ことを書く、というのは、著述家にとっては間違ったことかもしれない。しかし、「印象」には、「歴史的事実」とは別の真実があるだろう。生きている人間の真実、そのひとが生きてきた仮定で身につけてきた、そのひとの真実(事実)である。和辻は、客観的な歴史よりも、彼自身の歴史(個人の歴史)を優先する。そこから「歴史」へ近づいていく。和辻自身の「いのち」をひきずって、「歴史」へ近づいていく。
「印象」は「推測(憶測)」に、つまり、思考へと変化する。その変化は「自ずから」起きるのである。そして、和辻は、この「自ずから」に対して正直である。
そこに和辻の「自然」が滲んでいる。
この「自然」を「道」と言い換えていいかどうかわからないが、私は言い換えたいと思っている。
和辻のことばが「自ずからの力」で動いた瞬間、ことばが輝きだす。「ここが好き」というときの「好き」の感情に、嘘というものがいっさいまじっていない。だから「道」と言い換えたくもなるのである。
『桂離宮』で和辻が書いていることは、「歴史(建築の過程)」的視点から見ると間違っているのかもしれない。しかし、そこに書かれている「印象」はとても鮮やかで説得力がある。「歴史的視点」からもおなじような「美の定義」に到達できるかもしれないが、それは無意識に動いてしまう「印象」の強さを持ちうるかどうかわからない。
「間違い」があっても、私はかまわないと思う。私は「歴史家」ではないから、そういうことは気にしない。「間違う」ことでしかたどりつけない「真実」というものがあっても、私はかまわないと思っている。「正直」なら、それでいいと思っている。
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