池江選手の「ツイッター」
書こうか、書くまいか、迷ったが。
思ったことは、消えるわけではないから、書いておく。
読売新聞2021年5月12日の社説「五輪開催の賛否 選手を批判するのは筋違いだ」のなかに、こういう文章がある。
五輪の中止を求めるなら、政府や東京都などに向けて声を上げるべきである。出場を目指して努力を重ねてきたアスリート個人に、「辞退して」「反対の声をあげて」と要求するのは、あまりに酷な注文で、配慮を欠いている。
もっともらしく聞こえる。
でも、これが、批判でなくて、たとえば「池江選手、絶対金メダルとって」だったら、どうなるのだろう。「池江選手のがんばりで、日本中を元気にして」「五輪反対といっていたひとたちのやっていたことが間違いだったことを証明して」(五輪は日本を勇気づけるために必要だったということを証明して)だったら、どうなるのだろうか。
これは酷な注文、配慮を欠いた要求にならないのだろうか。
ふつうの国民は、選手をとおして夢を見る。それは何も池江選手だけをとおしてではないし、日本選手だけをとおしてでもない。外国の選手、名前を知らなかった選手をとおしてさえ夢を見る。名前を聞いたこともないだれかがマラソンで2時間を切って優勝する。そのとき、それを見ていた人は、興奮するだろう。スポーツは、そういうものだと思う。ふつうの国民は、スポーツ選手に、自分のできない夢を託し、それが実現する瞬間を共有する。
それはスポーツそのものが基本だけれど、スポーツ以外でも同じ。
大坂なおみが、黒人暴行死に抗議する黒いマスクをつけて、全豪テニスで優勝した。ひとは大坂の優勝にも興奮したが、黒いマスクの抗議にも興奮した。
ふつうのひとが大阪と同じマスクをつけて街を歩いていても、テレビも新聞も取り上げないだろうし、それが世界に報道されるということもない。スポーツ選手は、スポーツだけではなく、ほかの行為でも多くのひとの思いを代弁できる。代弁できるだけではなく、メディアをひきつけることで「大声」を発することができる。そういうことを、私たちは知っている。
だから、池江に夢を託すのだ。
池江が白血病に打ち勝ち、努力を重ねてきた。日本選手権で優勝し、五輪出場権を獲得した。そういうことを知っているからこそ、池江が五輪に反対する、中止を要求すれば状況が変わるのじゃないかと期待する。そういう期待をもつことがいけないという批判が起きるのは、当然わかっている。わかっていても、そうしたいひともいるのである。
なぜか。
読売新聞は「五輪の中止を求めるなら、政府や東京都などに向けて声を上げるべきである」と書いているが、その声を上げている人は大勢いる。国会前でのデモもあれば、反対署名もある。読売新聞の世論調査でも五輪に反対の人は6割もいる。それなのに菅は「安心・安全の大会へ向けて努力する」と言うだけである。ふつうの人は何を言っても、政治に声が届かない。権力は聞こえないふりをする。そういう社会にしてしまった責任はマスコミにもあるだろう。世論調査で6割が反対しているのに、読売新聞は、その声を聞いて「読売新聞として五輪に反対する」と言ったか。無視しているだけではないか。それはマスコミとして「正しい姿勢」なのか。
池江に「辞退して」「反対の声をあげて」と要求するのは、あまりに酷な注文で、配慮を欠いていると指摘するのは簡単だが、池江しか頼ることができないと思っているひともいるということも忘れてはいけない。