新聞を読みながら考えたこと

私はときどき「日本語」を外国人に教えている。新聞を読みたいというので、きのうは、こういう記事を読んだ。
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20211119-OYT1T50207/


宣言下でも会食・イベント制限を撤廃…対処方針改定、首相「状況見極めながら工夫して対応」


 政府は19日、新型コロナウイルス感染症対策本部を持ち回りで開き、緊急事態宣言下でも、飲食店やイベントでの人数制限の撤廃を可能とする基本的対処方針の改定を決定した。ワクチンの接種証明などを活用する「ワクチン・検査パッケージ」を使い、コロナ対策と経済活動の両立を目指す。


問題は「持ち回り」である。
受講生は「持ち回り」を「順番に、交代で」と把握していた。掃除当番は「持ち回り」で。今週は私がしたから、来週は君が。
まあ、ねえ。こういうときは「輪番」の方が適切か。
私は「会議」というのはふつうは人がひとつの集まって議論する。賛成の意見も出れば反対の意見も出る。それを聞いて、考えを変える人も出てくる。
でも、「持ち回り会議」というのは、一人の人間が、いろいろな部屋を(個人を)たずねて、そこで意見を聞いてまとめる。別々の部屋にいるから、誰がどういう意見を言ったかわからない。(持ち回りのとき、つたえる人もいるだろうけれど)
議論をしているようでしていない。
で、ここから私は脱線してしまった。
日本人と話している気持ちになって、ついつい日本の政治批判、日本の新聞批判へと展開してしまった。
簡単に言うと「持ち回り会議」というのは民主主義ではない。
だれかの意見を、他人に押しつけて、それで「結論」を出してしまう。
今回も「対処方針改定案」を持って各大臣をまわり、「これでいいですか」と了解をとっただけだろう。
ジャーナリズムなら、こういうときは「持ち回り閣議(会議)」ではなく、ちゃんと議論して結論を出すべきなのでは、と指摘することが大事だろう。
そういうことがおこなわれていない。
これが日本の政治とジャーナリズムの現実。
そういうことも踏まえて、日本の新聞を読む必要がある、と私は言わずにはおれないのだ。
それが証拠に、といっていいのかどうかわからないが。
記事の最終段落。


医療提供体制では、今夏の感染ピーク時に比べ、感染力が2倍でも対応できるよう、今夏より3割増の約3万7000人が入院できる体制を今月末までに整備すると明記した。感染力が2倍を超えて医療の逼迫が見込まれる場合は、政府の責任で通常医療を制限し、緊急的に病床を確保することも盛り込んだ。


よく読んでみてください。
「政府の責任で通常医療を制限し、緊急的に病床を確保することも盛り込んだ」とは、別の言い方をすれば、「政府の独断で」通常医療を制限し、緊急的に病床を確保する、である。
「持ち回り閣議」の「改定案」が、やはり独断でつくられたものであることが、ここからも類推できる。
学者や医療関係者を含めた対策会議を開き、決定したわけではないのだ。
こういうことを「野放し」にして、これからの日本の政治が展開していくのである。
とまでは、受講生には言わなかったけれどね。
「ことば」は「意味」が通じればいいというものではない。
「ことば」は思想そのものなのだから、どんな考え方が「ことば」にあらわれているか、それを読み取るためにはどうすればいいのか、というところまで、私はついつい踏み込んでしまう。
ということを書いているのは。
実は、新聞を読んでいる日本人の読者にも、新聞をどう読むべきなのか、語りたいからである。
私は、テキストにつかった読売新聞の記事を読みながら、頭に血が上ってしまった。
「持ち回り閣議(会議)」でコロナ対策を決めるなんて、ずさんじゃないか、という批判がどこにもない。
こんなジャーナリズムでいいのか。

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谷内修三
マスコミ批判、政権批判を中心に書いています。これからも読みたいと思った方はサポートをお願いします。活動費につかわせていただきます。