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「障害」と「ハンディキャップ」はどう違うの?

 「障害」は、故障=壊れているの?
 「障害」は、害があるの?
 私は、人や動物の状態を表す言葉に「障害」を用いることが、どうにもしっくり来ません。それは、何故なのでしょう?

 そもそも「障害」は中国の故事に由来し、もともとは「障礙」と書きました。それが、時代の変遷と共に現在の「障害」に書き換えられました。

 現在一般に使用されている「障害」という言葉。辞書(大辞泉)には、「①妨げになること。また、あることをするのに、妨げとなるものや状況。②個人的な原因や、社会的な環境により、心や身体上の機能が十分に働かず、活動に制限があること。身体の故障。」と記されています。また、漢和辞典には、漢字それぞれに「障=さしさわる」「害=損なう」と記されていて、読む側にニュアンスとして“壊れている”かのような印象を与えます。
 これに対して、もともとの「障礙」は仏教用語に由来し、平安時代末期から明治初期にかけて使用され、当時は「しょうげ」と読みました。

 仏教用語としての本来の意味は、
「道を行こうとする人の前に大きな石が転がっていて、行く手を阻まれた状態に困惑する様(さま)」です。

 「障害」が状態や状況を表すのに対して、もともとの「障礙」は当事者の困惑している心情を表すもので、全く意味合いが異なります。

 明治に入って「障礙」の略字「障碍(しょうがい)」が用いられるようになりますが、最初に公文書に使用されたのは、1874(明治7)年施行の「恤救(じゅっきゅう)規則(後の救護法の基)」という明治政府が制定した慈恵的貧民救済制度でした。そして大正以後、経緯は分かりませんが何故か「障害」の文字が一般化し、現在に至ります。

 これとは別に、Handicapという言い方があります。これは、「Hand」「i」「cap」の三つの単語から成る合成語で、Hnadは手、iはinで中、capは帽子のことで、直訳すると「帽子の中の手」となります。
 この語は、18世紀のスコットランドの逸話を起源としていて、エピソードの舞台は庶民の間で親しまれていたゴルフコンペの打ち上げ(呑み会)の席でのこと。酒場で当日のプレイを振り返りながらお酒を酌み交わすうちに、皆が酔い潰れて眠ってしまい、店主がお店を閉めようと思っても、支払いが完了しないためにお店を閉められないことが続きました。そこで、始めの乾杯の前に呑み代(しろ)をそれぞれにゴルフ帽の中に入れてから呑み始めるようにします。ところが、皆が酔い潰れた後に店主が帽子の中のお金を回収してみると、いつも幾らか足りないことが続き、更なる改善策としてメンバーの一人が最後まで起きて不足分を支払うルールに変更しました。そして、最後まで起きておく者には、メンバーの中で経済的に“最も豊かな者”が選ばれました。つまり、最後に帽子に手を入れる者hand+i+capperです。なんだか貧乏くじを引かされたように思われるかもしれませんが、“最も豊かな者”というレッテルはむしろ誇らしいステイタス(社会的地位)、栄誉として市民の間に拡がっていったのです。

 以上がHandicapの元々のエピソードです。この「最も豊かな者が不足分を支払う」という考え方が、やがて当時イギリスで盛んに行われていた草競馬にも応用されることになります。

 最も豊かな優れた能力を有する馬は、当然のことながらいつも1等になります。しかし、草競馬ですから出走する地元の馬は限られており、いつも同じ着順では競馬として盛り上がりません。そこで考案されたのが、豊かな能力、優れた能力を有する馬に応分の重量を負荷するハンディキャップ・レースでした。この方法だとどの馬が優勝するか分からず、賭けは大いに盛り上がりました。そして、能力の高い馬として重量を負荷された馬主は、負荷に応じたステイタスを得て満足しました。このような“重量負荷”の考え方が、後に他のさまざまなスポーツにも応用され、ハンディキャップを付与されることがステイタスとして定着しました。

 こうしたことが基となり、20世紀初頭に心身に不自由を有する状態をHandicapと呼んで、「優れた魂に神様が与えられた負荷」という意味が込められました。つまり、Handicapはネガティブな状態ではなく、「神様が特別に愛される魂に与えられたGift」であり、むしろステイタスとして当人も家族も誇らしく思って良いと、そういう意味合いで名付けられたのです。

 確かに、Handicap=障礙がある状態というのは「不自由(不便)」であることに違いはないのでしょう。しかし、「不自由」が「不幸」と同義かというと、そうではありません。現に、わたしが関わってきた施設のスタッフは、施設に籍を置く子どもたちや利用者さんたちと沢山の幸せを共感、共有しています。しかしながら、日本では「障害」という用語を、「目、耳、手、足、○○が悪い(良くない)」「故障している」ニュアンスや価値を含んで用いてきたように思います。
 ただし、私がこのコラムを通じて訴えたいのは、「障害」という呼称さえ変えればということではありません。それ以上に、障礙の有無によらず全ての人が社会に必要な一人ひとりだということと、健常者と障がい者が上下の関係にあるのではないということです。「障害」という呼び方や表記は改めるべきだと考えますが、私たち社会の意識を変えること、それが何より重要なのです。

 「障礙(碍)」や「Handicap」を文化として根付かせるために、当事者の最も身近にいる私たちが、当事者と当事者を取り巻く人たちに上記の価値観に立って接し、理解と賛同の輪を広げていくことが求められているのだと思います。


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