「ホワイトカラーの生産性はなぜ低いのか」を読んで
辛辣、だがどこか納得してしまうタイトルの本が書店に並んでおり、つい手に取ってしまった。
日々製造業のお客様と対峙していると、日本の「現場力」の強さ、言い換えるとブルーカラーの生産性の高さ、「カイゼン」力の強さを実感する。
しかし、現場力の強さは浮き彫りになる一方、それ以外(一般的にホワイトカラーと呼ばれる仕事)に大きなロスが散見されることが多い。
・発注は全て紙ベース
・全てのメールは一度上司がチェック
・ルールベースで自動化できるはずの業務へ10人以上の労力を投下している
こんなものは序の口である。明らかに工場の方は生産性がカンストに近づいていっているのを感じるのにも関わらず、ホワイトカラー側は現場に丸投げされ、経営陣主導にて業務改革が行われたり、人員整理などの「少人化」への強制力をかけられることが少ないようだ。
口では生産性向上、などと圧力をかけているつもりかもしれないが、実情は「与えた予算の中で、かつ部署内でなんとかしろ」という悲惨なものである。
大きな会社になればなるほど、部署間の連携が取りづらく、部署内でのDX化、AI活用を望まれることが多い。いわゆる大企業病である。
そのような中でAIシステムを依頼していただくわけだが、(もちろん望まれたからには)まずは社内でのAIへの信頼度を高めてもらうために、部署内で成功事例を作ることを全力で目指す。
ただ、それだけでは最終的な顧客視点、全社視点でのインパクトは小さいのは言わずもがな、最悪のケースは全体最適から遠回りしているだけの可能性もある、という無力感, 焦燥感も感じる。
ゆくゆくは業界全体のDX, AI活用を推進していく立場、つまり経営レイヤーからのトップダウン施策を推進していけるような立場になるべく、これからも精進していきたいと強く考える日々である。
前置きが長くなり恐縮だが、ここから本書の内容に入っていこうと思う。
「ホワイトカラーの生産性はなぜ低いのか」
本書のタイトルである「ホワイトカラーの生産性はなぜ低いのか」であるが、まずそもそも「ホワイトカラー」と「ブルーカラー」とは何がどう異なる働き方なのか。
この本の主張である、高度成長期に海外を凌駕する成長を誇ったのは日本の現場力(ブルーカラー)であり、その高い生産性は今も失われているわけではない。ここ20-30年で海外と差が広がってしまったのは、ホワイトカラーの労働生産性が全くと言っていいほど上がっていないからだ、と言う根幹に響いてくる。
(注)ここで言うブルーカラーとホワイトカラーは単なる職種の違いであり、職業の貴賤とは一切の関わりを持たないことを明言しておく。
ブルーカラーとホワイトカラーの本質的な違い
本書ではブルカラーとホワイトカラーの本質的な違いは、以下のように業務で生み出す成果物にて線を引いている。
ブルーカラー:「一定の品質の」「多数の」「モノ」
ホワイトカラー:「できるだけ有用な」「ひとつの」「情報」
これは個人的にスッキリ入ってきた。
特筆すべきは、明確な境界線があるわけではなく、たとえ工場で働いていても出世して工場長になればホワイトカラー的な働き方の時間が長くなるだろうし、たとえ都会のオフィスで働いていても、コールセンターなどはブルーカラー的な働き方に近い、と本書の中でも言及されている。
また、ホワイトカラーの「できるだけ有用な」という点も重要である。どれだけ品質が高くても、届けた人の行動変容が起こらなければ価値はゼロになるからである。そういう意味ではホワイトカラーは常にシビアに自らの仕事に問い掛けなければならない。
ブルーカラーでは一定の品質のものを生み出せば、(多くの場合)価値がゼロにはならない。
ただ、ホワイトカラーでは何時間かけて資料を作っても、誰にも読まれなかったり読まれても行動変容が起こらなければ価値にならないからだ。
デジタルに乗り遅れた日本
最初に述べたように、この本ではブルーカラーの現場力は今も随一であるという。
では、なぜここまで労働生産性に差が開いてしまったのか?
それはひとえに、ホワイトカラーの生産性を上げることができなかったからだと言う。(本書の著者はSAP出身なこともあり)本書ではERPなどのデジタル統一基盤の話が多かったが、それよりも一段上の問題として人材の流動性を日本特有の課題として感じた。この点に関する思想は、このnoteの最後に述べようと思う。
膨大な「グレーゾーン」業務
一旦ブルーカラーとホワイトカラーの話に戻る。
述べたように、ホワイトカラーの業務は「正しい受け取り手」に「適切に届いて」、「行動変容」してもらう必要がある。かなり価値を出すまでにチェックポイントが多いだけでなく、その価値を定量的に評価することも難しい。
このように、ホワイトカラー業務には「価値が判断しずらい業務」がたくさん溢れている。本書ではそれらの業務を「グレーゾーン」と読んでいる。
本書曰く、ホワイトカラーは「絶対に必要な作業」は非常に少ない。「やったほうがいい仕事」から「完全に無駄な仕事」まではグラデーションであり、どこまでやるかは「業務時間に収まるか?」で判断される。
これが何を意味しているかというと、仕事をやるかやらないかの判断が、「価値判断」ではなく「時間判断」になっているということだ。つまりいくら人を増やしても、カイゼンにより効率が上がっても、業務時間中にやるラインが上がるだけなのだ。
「効率化」はされても「少人化」はされない
無尽蔵に人がいたり、人件費が低いのならこのやり方で問題ないのかもしれない(実際に高度経済成長期はこれで良かったのであろう)。ただ、令和に入り少子化、それに伴う労働人口の減少が叫ばれる現代では、価値の低い「グレーゾーン」の仕事をこなせる量が増えて満足してはいけない。
労働生産性、つまり1人あたりの付加価値を高め、利益体質を作り、社員に給与などで還元していくためには、「先に少人化」しなければならないのである。
まず人を減らし、生産性をあげ、残りの人員をより付加価値の高い領域へフォーカスさせることが経営者のするべき仕事である。
現場に放り投げてはいけない理由
トップダウンで行うべき理由は明確である。現場からのボトムアップのカイゼンでは「増やす」ことはできても「減らす」ことができないからである。
現場のカイゼン力が弱いわけではない。そもそもカイゼンとは、「今よりよくする」が絶対なので、トレードオフがある(デメリットが少しあるが、メリットが大きい)類の行為は行われづらいのである。
負担の大きな大きな変革を望まず、「100%ムダ」と言い切れる部分を探し削っていく現場主導のカイゼンでは効率化は行われても少人化は行われないのである。
そのため、経営者が北極星となる大目標を掲げ、上記のトレードオフを理解しつつも、目標達成のための施策として実施する必要がある。
現場主導では(仕組み上)実現しない、既存のやり方では成し得ない抜本的な変革により、「ムダ」ではないが優先順位の低い業務を一気に削ることで「少人化」、つまり本質的な生産性向上につながる。
日本の強みである「個別最適」では限界がある。これからの時代は「全体最適」にもフォーカスしなくてはならない、ということなのである。(下図参照)
「少人化」は労働者の敵なのか
本書では「少人化」というキーワードが続出し、私をはじめ労働に従事している方々は腹が煮えたぎる想いを感じた方もいるかもしれない。
まあ確かに資本主義において、企業を運営する「人件費」は経営者も含めて(会計上も、経営上も)コストなことが多い。
ただ、「カイゼン」や「少人化」、ニンベンのついた「自働化」は想像以上に社員想いなのである。
トヨタ11代目社長・豊田章男さんの語っているニンベンのついた「自働化」への解釈が象徴している。
これが「カイゼン」や「少人化」、 ひいては「ジャストインタイム」や「肩書廃止(社長→社責)」などの有名な思想・施策の中軸を流れるトヨタで受け継がれている想いなのだろうなと感じる。
会社経営への覚悟
これは製造業のみならず、自分が会社を経営していくならば絶対に向き合い続けないといけない課題でもある。
自分の会社を経営していくのであれば、メンバーの貴重な人生の時間を一緒に過ごしてもらうことになる。そうであれば「この会社で働いた価値があった」と死ぬ時に思えるような会社にしなければならない。
もちろん特に初期は泥臭い作業や体力の必要な仕事も多いだろう。代表である自分が一番そこで努力するのは大前提であるとして、メンバーには常に価値のある仕事へのシフトを促せる仕組みづくりを常に考えていきたい。
日本の解雇制度
少し話は飛躍するが、最後に思想を述べたい。(反論も大歓迎である)
本書を読んでいて気になったのは、日本の解雇制度、つまり「人数を減らすことができない」というのも失われたXX年に変革が起こせなかった大きな制約になったのではないか、ということだ。
もちろんトヨタの思想のように、少人化した余剰人員は別の価値ある仕事を行ってもらう、ということが常にできたら理想である。
しかし、経営者側に相当な能力がないと常に魅力的な仕事を供給し続けることが難しく、時には情勢など様々な影響により社内で新規の仕事を作るのが難しい時もあるだろう。
そのような時に、日本企業は相当な理由がないと一時的なスリム化が非常に難しいのである。
タイムリーな話題としては、投票が明日に迫った自民党総裁選の候補者の中で「解雇規制の緩和」が取り上げられている。
常に情報を追っているわけではないので、詳細はぜひ調べていただきたいが、河野太郎氏と小泉進次郎氏が「解雇規制の見直し」に言及している。(それ以外の候補者は反対の姿勢だったはず)
河野太郎氏は、「金銭的解雇」と明言している。誤解を恐れず平たく言うと、どうせ揉めても(裁判して不当解雇が認められても)どうせ和解金払うだけでしょ?それなら最初から金銭解決しておけば双方の負担も少なくない?
小泉進次郎氏は「解雇された人の再就職を支援する費用(例:リスキング費用)を企業が負担する」という案を提案している。
正直2人ともざっくりとした案しか述べていないので、同じ主張なのかは全然違う解決策なのかは見えていない。
ただ、正直これに労働者階級が猛反対することは目に見えているのに、総裁選の前で表明してくれていることに感謝である。
個人的には、解雇制度が見直されたとしても、数年、長ければ十数年は現行の慣習のまま、特に大企業は正社員を解雇しにくい状態が続くと想定しているが、人材の流動性を上げていく観点から良い糸口になると考えている。
下記の通り、今も特に法律で解雇を厳しく制限されているわけではないのだが、問題は労働者側の認識である。
50代、60代の逃げ切り世代の方々に憑依すると、反対したくなる気持ちも大いにわかるが、我ら若い世代で反対する労働者階級の人たちは、自分たちの首を絞めているだけではないか。
河野太郎氏と小泉進次郎氏ともに「金銭的な援助を伴う解雇」を実現させようとしている(ように見える)。
その前提で考えると、「解雇規制緩和」にはメリットしかないようにも見える。
企業側は「いつでも首が切れる」ので、定年までの人件費を想定する必要がなく、給与を上げられる
これまで不当に(無償で)解雇されていた人もお金がもらえるようになる
正規雇用と非正規雇用の差分が小さくなる(→差別が減る、保険などがない分非正規の方が賃金高くなる可能性)
これらはベンチャーで非正規雇用(業務委託など)で働くと実感としてもわかる。
人材の流動性が高いので企業側は給与を高く提示しなければならないし、保険などがない分、基本給(時間給)を高くできる。
もちろん前述の通り、会社にしがみついている人たちからしたらデメリットの方が大きいかもしれない。
ただ、トヨタの「少人化」を理解すればわかるように、目先の「労働者の権利」を主張し、企業、ひいては国全体の生産性を上げることを拒むことは全員で沈む船に乗る決断をしているようなものではないか。
今回の総裁選をきっかけに、日本の曖昧な解雇制度が刷新され、労働者も安心して解雇される世界が来ることを望んでいる。