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第6章「実感の湧かない進展」-1
9月20日その日は3連休前の金曜で、並木は大野に呼ばれて「まゆの子」にいた。大野と会うのは決まって金曜日だが、大野の方から誘ってくるのは珍しい。しかも鈴木がいないことを考えると内ゲバの話であるのは察しが付いた。だがこれ以上話すこともなく、すでに「もう何もするつもりはない」と告げている。そして大野から話を蒸し返すとは思えなかった。
しかし目的は内ゲバの話だった。大野は疑っていたわけではないが、並木が中途半端な状態で手を引くとは思っていなかった。大野は言わなかった、正しくは言えなかった話が心の中でモヤモヤしていた。だが並木は内ゲバの話題を出されると、
「例のタクシーの強殺事件に進展があって、それどころじゃないんだよ」
とそれ以降は何もしていないと間接的に説明した。疑うつもりはなかったが、結果的には確かめるような言い方で事件の進捗状況を質問した。
「実は被害者が別人だったんだよ」
「別人? 別人だったというのはどういう意味だ?」
大野は少し興奮しながら興味を示したので、並木は現在の捜査状況を簡単に説明した。
「公安事件では『背(はい)乗(の)り』といって北朝鮮のスパイが別人に成りすましていた事件があるが、何かのスパイ事件と関係しているのか?」
説明を聞いた大野は警備警察らしい発想を口にした。大野が指摘した事件は1980年に辛(シン)光洙(グァンス)という北朝鮮工作員のスパイ事件だ。日本人を拉致してその人間の戸籍を乗っ取り、運転免許証や旅券の発給を受け本人に成りすましていた。タクシー強殺事件の15前に発生した事件ではあるが、辛が逮捕されたのが1985年であることを考えれば大野が気にするのも理解できた。
「公安との絡みはないと思うが、もし関係しているようだったら上司よりも先に連絡するよ」
並木が友達としての配慮を見せると大野は嬉しそうな表情を見せたが、実はこの流れを並木は意図的に演出していた。一旦は関心がないことを印象付けさせ、大野から内ゲバや背乗りの話を切り出させたところで、
「内ゲバ事件の被害者は警察の協力者だったのか?」
という目的だった質問をした。その質問に大野は動揺を隠しきれず、まるで心臓が止まったかのような驚いた表情で並木を凝視した。その表情は誰が見ても図星だと分かるほどあからさまで、このことが正に並木に隠していた内容だった。
「どうして、いや……」
言葉まで動揺していれば疑う余地はなかった。そして協力者だった事実を隠していただけに動揺も激しかった。表情を見られた大野はこれ以上の噓は信用を失墜するだけだと思い、
「知っていたのか?」
と恐る恐るではあったが遂にパンドラの箱を開けてしまった。
「あの時代に中国と関係している人間に外事警察が無関心だったとは思えないからな。それに被害者自身が左翼系じゃないとなれば、俺じゃなくても気が付くだろう」
並木は他にも根拠と思える理由はあったが、無難で分かりやすい理由を並べた。そして言い方もその場で思ったことを口にしただけのように装った。大野は自分から呼び出したことを後悔する一方で、隠し事がなくなったことに安堵した。そして改めて並木の洞察力と分析力の凄さを痛感した。
大野は気持ちを落ち着かせようとウィスキーグラスを手にしたが、気持ちが動揺しているのかその持つ手が震えているのを自分でも気が付いた。
「確かに秘密にしたところで、分かる奴には分かるよな」
「言えないことであれば、無理することはないぞ。俺は大野に迷惑を掛けたくないからな」
並木は気を遣った。実際は大野が肯定しても否定しても意味はなく、公式に警備局が協力者だったことを認めるはずもなかった。そんな中で大野が誤魔化さずに肯定したことは友達として救われた思いがした。
「昔の話なので詳細は分からないが、警察庁の記録では県警の情報提供者だったとメモには書いてあった」
大野はそう切り出すとメモに書かれていたことを説明し始めた。
警察庁のメモによれば、埼玉県警では高樹から中国関連の情報提供を受け、これを警察庁に報告していた。中国は当時のソ連、そして北朝鮮と比べれば脅威とは言えなかったが、仮にも共産国の仮想敵国だったことから高樹の情報は有用だった。情報は中国の国内状況など全体的な情報から高樹の貿易相手や所属など個人的な情報まですべてが情報提供の対象になっていた。
高樹も当初は警察を本当に信用していいのか不安で、万に一つでも情報提供していることがバレたら帰国できなくなる。そんな不安を感じた高樹を説得して埼玉県警は協力者にしたという。
「中国が事件に関与した可能性はどうなんだ?」
説明を聞いていた並木は中国による暗殺説を指摘した。そう思うのはごく自然なことで大野も、
「中国が関与した可能性は否定できないが、そう判断する証拠もないとメモには鉛筆で書かれていた。ただ何を根拠にそう判断したのかまでは残っていなかったので、それ以上のことは……」
と否定した経緯が不明であることを説明した。
警察庁は監督官庁であることを理由に自ら捜査はしない。したがって不都合な情報を埼玉県警が握り潰していた可能性は否定できない。しかし中国脅威論を世間に訴えるのであれば、これ以上の宣伝材料もないのも事実である。もしも政治的配慮があったとすれば、それは警察庁のメモに残っているはずである。そう思った並木は大野の説明に納得した。
「高樹は定期的に中国へ渡航していたことを考えれば、入国した時にスパイ容疑で逮捕した方が中国はリスクが少ないんじゃないか。そうすれば日本への牽制にもなるだろう。当時中国の関与を否定したのは、そんな考え方をしたんじゃないか」
大野の警備警察らしい見解に並木は頷いた。そんな大野に敬意を払うかのように並木はウィスキーグラスを手にして乾杯を促すと、大野は再び嬉しそうな顔をした。そして乾杯後は学生時代の話に終始して2人は別れた。
連休明けの火曜日、部下を送り出した並木は書庫へ向かった。勇の関係を知る者は当時の捜査に従事した捜査員で、しかも幹部くらいしかいない。その幹部も事件発生から過ぎた年月を考えればどれだけの人間が残っているのかを想像すると、勇を調べる必要性はないように思えた。
勇以外の関心事は2つで、1つは夫婦に対する殺害動機でもう1つは捜査の不作為だった。捜査の不作為とは意図的に被疑者を逮捕しなかったという疑念である。
警備事件でもないのに警備事件として扱ったことや勇の所在を隠したことを踏まえると、意図的に被疑者を逮捕しなかったという不信感が払拭できなかった。被疑者を逮捕すればいろいろと不都合なことが裁判で明らかになる。特に高樹が警察の協力者だった発覚を恐れて、当時の幹部は意図的に逮捕しなかったのではないかと並木は考えていた。
また殺害動機では怨恨や金銭トラブル、そして仕事上のトラブルなどいろいろな理由が考えられる。当時の捜査でも会社関係を調べているが、康之が営んでいた「日孔貿易」は事件後に自主廃業している。親族だけでなく従業員でも後を継ぐ者がいなかったことから、「経営権を巡る殺害」の線は消えていた。
そして廃業後に収益を上げた企業についても捜査したが該当する企業はなかった。その結果会社でのトラブルがなかったことから会社絡みによる動機を当時の捜査では否定していた。
次に怨恨の捜査もしていた。子供の部屋に隠し部屋を作っていたことから「誰かに狙われていた」との考えも出ていた。しかし隠し部屋がある一方で襲撃対策として金属バットの1本も準備されていなかったことが解(げ)せなかった。
そして女性問題や金銭トラブルなど被害者夫婦の個人的な問題も捜査したが、夫の康之も妻の智子も周囲からの評判は良好だった。それを踏まえると子供部屋の隠し部屋は単に床収納として作られたもので、襲撃を予想していたとする仮説は見込み捜査を導いた大きな要因になっていった。
この見込み捜査も穿った見方をすれば逮捕を遅延させる、または逮捕させないための茶番だった可能性もある。捜査第一課で培った経験で捜査記録を見ると、どうしても当時本気で捜査していたとは思えなかった。それがこの事件を不作為で捜査していたと思わせた理由の1つになっていた。仮に警備部が刑事部よりも捜査センスが劣るとしても素人ではない。それでいてこの程度の捜査しかしていないのかという思いが並木にはあった。
「これだ」
並木は独り言を呟くと上着ポケットにしまっていた携帯電話を取り出し、捜査報告書を撮影した。本来携帯電話のカメラ機能を使った捜査資料の撮影は厳禁で、しかも公的な理由ではなく私的な撮影である。並木は周囲に人気がないことを確認して必要な部分の撮影を終えると会議室に戻った。
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