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第8章「暗号の人物」-8
初めて本当の新井と出会ったのは研究医の頃だった。東都医科大学付属病院は大田区の隣の品川区にあるため捜査では分からなかったが、新井は東都医科大学病院にも通院していた。そんな新井は金もなく通院もままならないのに、
「俺の臓器を売って、母親の目を治す金にして欲しい」
と言っては担当医を困らせているのを見ていた。そんな新井は病院では有名人で、小笠原も白衣をまとっていたことから、
「臓器が売れないなら、俺の目を母親に移植しろ!」
と執拗に絡まれたことがあった。社会主義を否定した小笠原だったが親を想う子供の気持ちを否定したわけではなく、むしろ新井に人としての尊厳さえ感じていた。
そんな男と同姓同名の人物が、偶然乗ったタクシーの運転手をしていた。小笠原は何気なく、出身地などを尋ねるとその男は新井定一そのものだった。
「そんな偶然が存在するのだろうか……」
「新井を殺して、新井になりすましているのだろうか……」
いろいろ考える中で警察への通報も考えた。しかしこんな話を誰が信じるだろうか。警察へ行っても相手にされないという思いと、いまだに康之の事件を解決できていない不信感から結局警察への通報を思い留まった。
自分で真相を究明しようとしても所詮は素人で、新井を名乗る男が誰で何のために新井を名乗っているのかを知るすべはなかった。そしてカルテを基に新井の住んでいたアパートを訪ねたが、そこはすでに取り壊された後で所在は摑めなかった。
しかし運命の悪戯とも言うべき出来事は存在した。新井を殺害する約1ヵ月前に再び偶然にも新井の運転するタクシーに小笠原は乗車した。小笠原は乗車するとすぐに新井について質問した。すると江畑は語り始め、最後はタクシーを停めてすべてを語った。
江畑の話では初めは世話になった恩返しのつもりだった。新井は母親を残して先立ったため、その面倒を見るために親子を偽装した。その時は自分を捨てることに躊躇はなかった。しかし新井の母親が他界して年月が過ぎていくと自分が誰なのか見失い始めた。それは後戻りできない後悔とこのまま生きて行くことへの苦悩が江畑を苦しめていた。
「死にたい」
最後は泣きながら殺して欲しいと懇願したという。医者としての倫理観、そして犯罪者になる恐怖は懇願されても簡単に引き受けられるものではない。医師としてたくさんの人を看取ってきたが、人を意図的に殺すという壁は絶対に越えられない。小笠原はすべてを知った正義感から警察へ通報するつもりでいた。
「医者は命を救えても心は救えないんですね」
この江畑の一言は小笠原の心に重くのし掛かった。
「医者として命を救うことが正しいと信じてきてが、それは物理的な命であって精神的な命は救っていなかったのだろうか……」
そんな疑問を感じた小笠原の表情を見てたたみ掛けるように江畑は自分の殺害を懇願した。江畑は小笠原が逮捕されないよう最大限の協力を申し出たが、それでも簡単に了承はしなかった。
「生きているのが……辛くて……」
この言葉が小笠原の背中を後押しした。2人は1ヵ月後に赤羽駅付近の路地で待ち合わせる約束をした。そしてタクシーの強盗殺人を装った偽装工作は被害者自らが積極的に協力して、指紋を残すことも目撃者が現われることもなく行われた。そして最後に江畑は、
「本当にありがとう」
と小笠原に感謝したという。
説明を終えた小笠原は振り返ることなくそのまま外の景色を眺めていた。並木はその背中に向かって、
「依頼されたからと言って、人を殺したんですか?」
と言うと小笠原はゆっくりと振り返り、驚くほど冷静な口調で、
「勇君は誰よりも江畑の気持ちが分かると思っていたが、それは私の思い違いだったようだね。しかし復讐だって許されるものでもないと私は思うんだがね」
と言うと、
「金田が自殺したと聞いた時に『まさか……』とは思ったが、植田の死でそれは確信に変わった。私は康之さんから金田の話を聞いていたんだよ。勇君のやったことを責めるどころか、私は称賛したよ。問題は小沼君だ。彼女はマダニに刺されたことも、そして暗号のことも知りすぎた」
と小沼がいずれ並木の、そして2人の災いの元凶になると指摘した。そのためにも口封じをする必要があると殺害を仄めかした。小笠原はマダニに刺されたことを報告すれば、植田の事故を装った殺害も発覚すると考えていた。
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