第7章「立証の苦悩」-1
9月30日の週明けの月曜。写真が入手できなかったことで江畑がタクシー事件の被害者と認定できなかった。しかし江畑の死亡を確認できたことは特命係の士気を大いに高めていた。そして特命係の誰もが被害者は江畑だと確信し、過去の就労場所から顔写真付きの履歴書が1枚でも見つかればと願った。そんな中で冷や水を浴びせるかのようなことが起きた。
「課長の指示で他の事件を手伝うことになった」
並木は出勤した部下たちにそう伝えた。この言葉に浅見たちは憤慨し、捜査第一課長の命とは分かっていても不満を口にせずにはいられなかった。だが下命された以上、従うしかないのも事実だった。
「溺死事件の捜査を下命された。特命係の担当を聞いてくるから、それまでここで待機してくれ」
並木はそう言うと大学ノートを片手に刑事課長のところへ向かった。
以前も練炭自殺で転用勤務を下命されたが、その時は結果的に自署で処理したが今回はそういかなかった。このような本来業務以外の仕事を警察では「転用勤務」と呼ぶが、特に飯場がある警察署で発生した事案ともなれば、その飯場にいる捜査員が臨場するしかない。
指示されたのは都県境を流れる一級河川の荒川で、58歳男性が溺死体で発見された事案の補充捜査だった。外傷がないことから自殺の可能性を見込んで捜査したが、第3者の介在がないと断定できないため特命係に補充捜査が下命された。だがそれは表向きの話で真相は違っていた。
事件性のはっきりしない事案を「変死事案」と呼ぶが、捜査第一課が呼ばれる前に検視室が先にその判断をする。したがって本来事件性のない事件に捜査第一課が捜査支援することはない。明らかに殺人事件ともなれば捜査第一課も即座に臨場するが、今回のような自殺の可能性が高い変死事案では通常臨場することはあり得ない。それを知っているからこそ、浅見たちはこの転用勤務に不満を感じていた。
そして浅見たちが更に納得できなかったのは警察組織内の政治、つまり力関係が理由だった。川口中央警察署長は元捜査第一課長で、階級も捜査第一課長が警視なのに対して川口中央警察署長は警視正だった。この力関係が公私混同を生み、署長が高野に直接、
「申し訳ないんだが、特命係を貸してもらえないか」
と連絡したことで高野も断り切れず転用勤務を下命することになった。ただでさえ転用勤務に対して納得していなかった5人はこの裏話を知るや否や不満を爆発させた。
「ここの署長は私たちが相当暇だと思っているんでしょうね」
𠮷良が口火を切ると次に佐藤が、
「暇だと思っているかは分からないけど、政治的な力関係で転用勤務っていうのはどうなんだ?」
と恣意的な使われ方に不満を漏らした。
「他殺の可能性はあるんですかね」
「可能性は低いと思うぞ」
「どの組織にも政治はあるんでしょうけど、一課員が投入されるって珍しくないですか?」
「俺もこの手の事案では聞いたことがないな……」
「刑事課長が元上司なんだけど、死者の母親がここの署の『警察友の会』の会長と親しいらしくて、それで署長が『念のために』とか何とかで話が大きくなったらしいですよ」
「それでこんな大騒ぎになったわけか……」
「ここの署長は俺が一課に異動した時に課長でいたんだけど、結構いい人だと思ったんだけどな」
「結構そう言う奴、多くないですか? 階級が変わると人間も変わっちゃう奴」
浅見たち5人は並木が会議から戻るのを待ちながら不満と噂話を好き勝手に話した。その並木は刑事課長に呼ばれたまま30分経っても一向に戻って来ない。その理由を誰もが昨夜の当直の取り扱い報告が優先され、指示は後回しにされていると考えていた。