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第1章 2つの事件

第1章-1
                        
「埼玉本部から川口中央」
「川口中央です、どうぞ」
「エンジン騒音。現場は川口市本町1の6。タクシーがエンジンを掛けながら停車していて、うるさいので注意して欲しいとの内容。通報は佐藤なる男性。司令番号87番。時間1時23分。扱い、水川です。どうぞ」
「川口中央了解。受信、飯田です。どうぞ」
「埼玉本部、了解。以上、埼玉本部」
「川口中央5から川口中央」
「川口中央です。どうぞ。ただいまの騒音苦情、向かいます。どうぞ」
「了解。よろしく願います」
「以上、川口中央5」
 近くを警ら中であった川口中央警察署地域課無線自動車警ら係の丸岡巡査部長と白井巡査は、無線を傍受すると現場へ向かった。2人は否。おそらく無線を聞いていた誰もが、この通報は単なるエンジンの掛けっぱなしが原因だと思っていたに違いない。だがこの通報が多くの者たちの人生を翻弄する悲劇の序章に過ぎなかったことを、この時点では誰も知る由もなかった。
「白井。近いから、行くぞ」
「了解しました」
「窓を開けていると、うるさいんだろうな」
 丸岡が声を掛けると白井は方向指示器を右に出すとパトカーを現場方向に向けた。
 1995年8月1日の夜は蒸し暑い熱帯夜だった。エアコンを使用している家が多く窓を開けている家は数少ないが、自宅兼工場の町工場が密集する現場付近に到着するとエンジン音が路地に沿って響き渡っていた。
「部長、あれじゃないですか」
 雑談をする間もなく現場に到着した2人は視界に通報通り1台のタクシーが停まっているのを確認した。タクシーを確認した丸岡は無線で現場到着の一報を入れると、併せて通報通りタクシーがエンジンを掛けたまま停車していることを報告した。報告を終えた丸岡がパトカーから降りると、真夏特有の蒸し暑くじっとりした熱帯夜を肌で感じた。そしてタクシーへ一歩一歩近付く度に制服のズボンが太ももに纏(まつ)わり付く不快感を覚えた。
 丸岡も白井もこの不快感から早々に脱出すべく運転手には手短に注意をして、すぐにエアコンの効いたパトカーに戻るつもりでいた。2人は手にしていた懐中電灯で真っ暗な車内を照らすと、運転手はハンドルを抱え込むようにしてうずくまっていた。
「何だ、寝ているのか……」
 白井はそう言うと窓をノックしたが反応がないので、ドアを開けてハンドルに寄り掛かる運転手を引き起こした。すると次の瞬間、
「部長、死んでいます! 殺しですよ、殺し!」
 と後ずさりしながら大声で叫ぶ声が静まり返った工場街に響き渡った。丸岡も白井の肩越しから腹部に包丁が突き刺さっているのが見えた。包丁から流れ出た真っ赤な鮮血はシャツからズボン、そして靴へと流れ、被害者の全身を赤く染めていた。丸岡は走ってパトカーに戻ると、
「至急、至急! 埼玉本部!」
「至急、至急! 埼玉本部です、どうぞ」
「指令87番は殺し。殺し。殺人事件です。どうぞ!」
 興奮した丸岡は無線の通話要領も無視して臨場したのが殺人事件の現場だったことを速報すると、埼玉県警察地域部通信指令課は直ちに緊急配備を発令した。それから数分も経たない間にパトカーや機動捜査隊の覆面パトカーが次々と緊急走行で現場臨場すると同時に現場は直ちに封鎖された。
 深夜1時半になろうという時間に何台ものパトカーがサイレンを鳴らしながら集まった現場周辺の住民は、玄関や窓から顔を出している者がいる一方で現場保存をする警察官に近付いて、
「何か、あったんですか?」
 と尋ねる者もいた。静まり返っていた深夜の工場街は突如として殺人現場に一変したが、詳細を知らされていない付近住民は不安を感じていた。そして警察本部の捜査第一課や機動鑑識係が臨場する頃には新聞やテレビなどの報道機関も集まり、早朝のニュースで「タクシー運転手が殺害された殺人事件」として報じられた。そして現場検証の結果、売上金がなくなっていることから、本件は強盗殺人事件として埼玉県川口中央警察署に特別捜査本部が設置された。
 現場は1階が工場、2階が住居という個人経営の町工場が建ち並ぶ工場街の一画で、昼は出荷車両などで人の出入りがあるものの、夜になると静まり返った街へと表情は一変していた。
 タクシーの運転記録によれば隣接するJR赤羽駅から乗客を乗せていることから、ここまでタクシーに乗って来た被疑者が包丁で運転手を刺し殺した上、売上げ金を強取して逃走したというのが最初の見立てとなった。
 この凶悪犯罪をメディアはすぐに大々的に報じた。発生警察署である川口中央警察署の駐車場は報道関係者の車両が占拠し、各新聞記者は発生直後から警察署内のロビーに張り付いた。そしてニュースの時間になると警察署を背景に照明が記者を灯した。その報道効果もあって川口中央警察署には連日多くの情報が寄せられ、その数は3日間で1000件を超えた。
 川口中央警察署は埼玉県警察の中でも3本指に入いる大規模警察署の1つで署員も380人を超える。西川口という県内屈指の繁華街を管轄していることもあって喧嘩などの粗暴事件は毎日扱っているが、特別捜査本部が設置されたのは2年ぶりのことだった。
 防犯カメラやドライブレコーダーもないこの時代、市民からの情報は事件の解決を大きく左右する重要な手掛かりの1つだった。特にこの事件では証拠品と呼べる物は被害者の腹部に刺さった包丁だけで、猛暑の中、連日100人を超える捜査員が現場周辺の聞き込み捜査に当たっていた。
 情報提供の裏付け捜査や聞き込み捜査など捜査員は休みもなく日々捜査に従事したが、被疑者の逮捕に繫がる有力な情報はなかった。そして発生から1ヶ月、3ヶ月、半年と時間の経過に比例するように特別捜査本部の捜査員は削減され、既に事件発生から29年目を迎えていた。
 そして今では人事異動の際に署長や刑事課長、そして強行係が事件記録を引継ぐ程度になったが、2010年の刑事訴訟法改正によってこの事件は転機を迎えていた。その転機とは凶悪事件に対する時効の撤廃である。
 時効の撤廃が盛り込まれた刑事訴訟法改正案は衆議院本会議を通過すると即日施行という異例の措置が講じられた。改正前は殺人罪の時効は25年で決して短いとは言えなかったが、被害者家族の心情を考えれば25年という月日はあまりにも短かった。この時効撤廃は殺人犯である凶悪犯罪者に生涯十字架を背負わす一方で、捜査員には絶対に事件を風化させない責務を負わせた。

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本郷矢吹
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