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第6章「実感の湧かない進展」-3

 並木は指示を終えるとノートを取り出した。このノートに書かれていたのは書庫にあった内ゲバ事件の捜査資料を携帯電話で撮影したものだった。その転記したものは被害者宅に残された預金通帳の口座番号で、並木はこの口座番号が意味を持つ数字だと考えていた。
 その根拠は口座を開設してから一度もお金を出し入れしておらず、そして決定的な確信を持ったのは口座番号を改ざんしていたことだった。本来口座開設時に付与される口座番号は自分の意思で決められるものではない。しかし銀行側が決めた数字を「暗号」として使えるようにあからさまに番号を書き換えていた。
 この「暗号」は一種のダイニングメッセージで、内ゲバ事件の隠された真相を解く鍵になると並木は考えていた。
 並木が関心を持った通帳は高樹康之、高樹陽子、高樹勇の3人の「埼玉銀行」の通帳だった。通帳は法人である「日孔貿易」名義の当座預金通帳の他に、個人名義で民営化になる前の日本郵政公社の貯金通帳や複数の大手都市銀行の預金通帳が事件当時押収されていた。それらの口座から現金が引き出された記録がなかったことから「金銭目的の犯行」の仮説は除外された。そんな中でこの3つの通帳だけは入金もなければ引き出しもなかった。しかもこの通帳は子供部屋の床下にあった部屋から発見されていた。
 埼玉銀行は1991年協和銀行との対等合併により協和埼玉銀行となり、その後あさひ銀行などと名称の変更を繰り返しながら現在の名称に至った。高樹勇の口座は勇が生まれた後に開設されているが、どの口座も口座開設のために千円が預金された後はそのままだった。
 並木がそんな発想に至ったのはサイモン・シンが書いた「暗号解読」という本の影響だった。作者のサイモン・シンはケンブリッジ大学大学院で素粒子物理学の博士号を取得し、その後イギリスのBBCで活躍した秀才だった。そんな人物が執筆した「暗号解読」によって、「転置式暗号」や「換字式暗号」など多くの暗号の基礎知識を身に付けた。著書の中では過去に使用された暗号が記載され、謎解きの好きな並木はこの本で暗号に魅了された。
この本で得た知識の影響もあったが、あからさまに改ざんされた数字を見れば「暗号」だと思わずにいられなかった。捜査報告書では「いたずら書き」と表現していたが、確かに発効された正規の口座番号の数字をマジックで適当に上から書き直していた。
 その適当な面を捉えて当時の捜査員はいたずら書きと判断したのであろうが、その判断に並木は捜査感覚を疑った。具体的には「5」を「6」、「3や6」を「8」、そして「1」は「4や7の他いろいろな数字」にしていた。
 だが並木が腹立たしく感じたのは捜査センスもあったが、これに気が付きながらも「いたずら書き」と記載しただけで、この意味をきちんと調べていないことだった。このような詰めの甘さを目の辺りにすると、「捜査しなかったのではなく、させなかったのではないか」という疑念は強まる一方だった。
 そしてもっとも重要なことは仮にこれが暗号だとした場合、相手が誰なのかということである。暗号は相手がいてこそ伝達する手段として有効なのであり、暗号を使ってまで誰にメッセージを伝えようとしていたのかである。
ただこれを県警が暗号だと気付きながら「いたずら書き」と報告し、実は解読していた可能性もある。だが暗号の基本は他の者が解読できないように対策を講じることにある。したがって気付いても解読できなかった可能性も考えられた。並木は数日に亘って謎解きをしていた。
 通帳を見ると表には「埼玉銀行」という銀行名が記載され、その後に店番として3桁の番号が、そして8桁の口座番号が印字されている。まず口座番号の8桁だが、最初の1桁目は口座種別で「1」は普通預金を意味していた。つまり3人の名義の通帳全てに普通口座の「1」が付与されていた。
 通帳を開くと銀行コードという四桁の番号があり、埼玉銀行は「0032」だった。現在の埼玉りそな銀行は0017だが、通帳が更新されてないため当時のままの番号だった。この銀行コードと店番コードは一切改ざんされていなかった。店番コードとは本店や支店を番号化したものだが店番コード、つまり開設支店はすべて違っていた。したがって意味を持つのは口座番号の8桁だと思われた。この8桁という数字は暗号として使いやすく、最初の「口座種別の1」はいろいろな数字に書き換えるには便利だった。
 暗号を解くためにはいくつか必要なものがある。その中で絶対に必要な物は「換字表」と呼ばれる暗号を文字に変換するための表である。KとAで「か」というローマ字と同じ原理で縦横に並べられた数字が交わるところに文字が書かれた表である。一度きりの使い捨ての暗号であれば問題ないが、同じ換字表を何度も使っていると「文字の出現率」によって文字が特定されてしまう。
 例えばあ行とま行ではあ行にある5文字の方が文書において頻繁に使われる。この文字の出現する頻度によって日本語の中で多く使われる文字を当て嵌めて解読する。特に今の時代は分析ソフトも発達しているため何度も同じ換字表は使えない。それを補うものが「乱数表」と言われるものである。
 乱数表は適当な数字が並べられただけの表で、その乱数表に送られてきた暗号の数字を足したり、引いたりすることで換字表に対応できる数字になる。具体的な数字を使って説明すると01が「あ」で05が「お」だとすれば0105は「あお」になる。これに乱数表が1234になっていて引く設定であれば元の数字は1339となる。つまり1339から1234を引くと数字は0105となり、「あお」という意味になる。これが換字表と乱数表を組み合わせた暗号だが本物はもっと複雑になっている。
 暗号のメリットは解読されないことにあるが、送り手も受け手も文書を一度暗号化しなければならない。したがってあまり複雑すぎると送り手も受け手も時間がかかってしまう。
 だがダイニングメッセージのように犯人には気付かれずにする一方で、捜査員には気付いて欲しいという場合には換字表は存在しない。したがって受け手が誰であるかによって換字表の存在も変わってくる。
それを考えれば優秀な頭脳を持つ並木であっても簡単に解けるはずがなかった。並木はこの数字としばらく向き合っているが一向に解けずにいた。
「やはり換字表がなければ、この暗号は解くことができないのだろうか……」
 思わずぼやきのような独り言を口にしながらため息を吐いた。すると携帯電話の着信音がなった。携帯を見ると浅見からの連絡だった。
「どうした?」
「すいません。小学校や中学校を回ったのですが、写真が見つからず……」
「疎開していた時代に卒業写真など撮っていないだろうからな。それでは一度戻ってくれ」
「もう少し探しましょうか?」
「いや。他の手段を考えるから心配ない。週末なので先に上がるぞ。雨だから気を付けて戻って来てくれ」
 浅見は申し訳なさそうに成果が得られなかったことを詫びたが、時代的な背景を考えれば浅見に責任はない。次の一手を考えるのが指揮官である並木の仕事である。並木は浅見たちを送り出した時から過度な期待はしておらず、強いて言えば新井の写真があったことの方が奇跡的なことだとさえ感じていた。
 並木は「長野に捜査員を派遣しているのであれば」と思ったことはあったが、金曜日の週末に帰宅を深夜にさせるのも心苦しかった。写真は入手できなかったが長野へ行かせた成果は得られたので5人を戻すことにした。そして並木は5人の帰りを待つことなく、開いていたノートを閉じると帰り支度を始めた。

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本郷矢吹
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