第5章「チラシと手紙」-2
「明彦。元気だった?」
「おかげさまで。母さんは?」
「少し耳が遠くなった気はするけど、元気でやっているよ。それにお父さんも元気よ」
チラシの配布から2週間が過ぎた8月15日、並木は夏期休暇を利用して久しぶりに実家へ戻っていた。警察の夏期休暇は各自がそれぞれ計画を立てて取得するが、警察署のように窓口業務を抱えていない飯場の捜査員たちはある程度まとまって休暇を取得できた。
並木は実家を避けていた訳ではなかったが、年齢的に、また近いということもあって帰省する必要性を特に感じていなかった。実家に戻るといまだに自分の部屋は残っていたが、生活実態がないためか自分の部屋という実感はなかった。
「教授、いらしてたんですか」
「久しぶりだね、義光君」
「ご無沙汰しています」
挨拶をしたのは父・陽一の後輩で、現在東都医科大学教授の小笠原武彦だった。小笠原は学会の発表内容の相談で訪れていた。小笠原は医学生の頃から並木の父親と親しく、妻の純子は並木の母親である美佐子が紹介した人だった。そんな関係から小笠原家とは家族ぐるみの付き合いがあり、並木も子供の頃から小笠原に遊んでもらっていた。
「義光君。良かったら一緒にどうだい」
小笠原が酒を誘った。並木は、
「話は終わったんですか?」
と尋ねると陽一は、
「今、ちょうどな」
と答えると視線をテーブルに落とした。挨拶だけ済ませて部屋に戻ろうと思っていたが小笠原が、
「ちょうど先生にお願いしようと思っていたんだが、義光君本人がいるなら直接話を聞いてもらえるとありがたいんだが……」
というのでそのままソファに座った。小笠原の「お願い事」というのは教え子とのお見合いだった。その話を聞いた瞬間、ソファに座ったことを後悔したが後の祭りだった。
相手は東都医科大学附属病院に勤務する内科の女医で断りたいのは分かっているが、会うだけ会ってもらえないかということだった。独身でしかも家業も継いでいないことを考えれば、相手が医者なので会うだけ会っても良いだろうと強く希求された。さらに両親の前で話をされては無碍に断ることなどできるはずもない。しかし面倒ごとは御免被りたいという思いから、
「会うだけって言いますけど、会っておいて断るというのはもっと失礼だと思うんですが……」
と遠回しに断ろうとしたが小笠原から、
「今、お付き合いしている人はいないんだろう」
と一番言われたくないことを口にされると、この話を受け入れるしかなかった。
お見合いの話は思った以上に早いテンポで進み、10ヵ日後の8月25日の日曜には会うことが決まった。お見合いといっても昔のように仲人がいるわけではなく、決められた場所に行くとそこに相手がいた。相手は小沼文乃という8歳下の女性で、ストレートの黒髪が似合う日本美人だった。キリッとしながらも笑うと優しさがにじみ出る顔立ちは、お見合いなどしなくても相手は見つかるとさえ思えた。
「どうしたんですか?」
「いや、何でもないです」
「私も初めてなので緊張しているのですが、並木さんも断るに断れなかったという感じですか?」
並木は表情を出さないタイプだが、小沼はほんの僅かな表情の違いを見逃さない程、繊細な感性を持っていた。そして勘も鋭いのか、並木が言いたかったことを先に口にした。
「小沼さんも小笠原教授から言われてという感じですか?」
「はい。ただ並木さんは未解決事件を担当されている刑事さんとお聞きしたので、ちょっと興味もあったんです。そうじゃなければ、いくら教授のお話でも……」
「そうだったんですか?」
「はい。私、推理小説とか大好きなんです。ところで今は川口中央警察署の事件を担当されているとお聞きしたのですが……」
「小笠原教授はそんな話までしていたんですか!」
「でも詳しいことは教授も……」
小笠原との世間話の中で川口中央の事件を担当していると話をしたが、確かに詳しい話はしていない。だがそれを口にされるのは決して好ましい話ではなかった。職業を教えるのは成り行きで許容できる範囲だが、具体的な担当となると話は別だった。特にそれが管理できない範囲にまで拡散しているとなれば聞き流すことはできなかった。
「この話はマズかったですか?」
小沼は並木の心を読み当てるように言った。
「マズいという話ではないんですが、この話はこの辺で……」
話をした責任は自分にあり、小沼を責める話ではない。すぐに話題を換えようとすると小沼はそれを察したかのように、
「今日のことなのですが、あまり重く考えないでください。私自身も結婚願望はそれ程ないですし、並木さんもないとお聞きしました。ただ教授の手前もあるので、その辺は相談させていただければと思っていたのですがいかがでしょうか?」
と並木が言いたかったことをまたしても先に口にした。そして小沼はお互いに結婚観はない者同士、友達的な関係のまま今後も逢うことを提案した。
「そうですね。私で良ければ……」
断る理由など何もなかった。最初の30分こそギクシャクした雰囲気だったが、大人としての年齢と高い知性、そして結婚観に対する共通点から2人が親しくなるのに時間はかからなかった。翌朝、
「義光君。教授に何て説明したら良いと思う? 教授は義光君の実家を私が継げば良いくらいに思っているから、変なことを言わないようにしないとマズいと思うんだけど……」
「別に付き合うようになったと話をしておけば良いんじゃないか? そうすればお互いに面倒な世話焼きもなくなるだろうし」
「義光君のお父さん、変に期待しないかな」
「文乃が心配する必要はないよ。それに父は自分の代で病院をやめるつもりでいるから」
「なら良いんだけど」
並木は久しぶりに女性のために時間を使っていた。そんな選択をした理由は自分でも分からなかったが、小沼も持つ独特の雰囲気が心地良かった。それは小沼も同じで久しぶりに一緒に過ごして楽しいと思える男性と出逢った気がしていた。そして2人とも周囲の余計な世話焼きから解放される理由ができたことに安堵していた。