
第8章「暗号の人物」-7
小笠原は貧しい家庭に育ったこともあり、高校時代には社会主義や共産主義に幻想を抱いていた。そして人生の目標は貧富格差のない社会主義的医療の実現だった。そう思うようになった背景には医大の同級生の大半が金持ちの息子だったことで、医大生になると社会主義をさらに信奉した。
そんな小笠原の指導教授になったのが陽一で、最初の頃は社会主義に憧れる小笠原とは距離を置いていた。それは陽一の父親である高樹力が共産主義者だったことが原因だった。陽一は共産主義者が憎悪を覚えるほど嫌いで、それが理由で絶縁して婿養子となった。したがって「並木」の姓を名乗っていたのはそのためだった。つまり陽一と小笠原は根本的に支持する思想が違っていた。
そんな2人は指導教授と医学生という立場の違いはあっても衝突するのに時間はかからなかった。この2人のねじれた関係を改善したのが高樹康之だった。陽一は弟である康之に小笠原を一時期預けることで共産主義とは何かを学ばせた。
康之も元々は共産主義思想にかぶれていたが、この頃には幻想からも目覚めて資本主義の素晴らしさを理解していた。康之は共産主義を信奉する者が何に騙され、どうすれば幻想と洗脳から解き放たれるのかを体験している。そんな康之は中国との貿易で渡航する際に小笠原を同行させると、小笠原の幻想はたった一度の渡航で崩れ去った。
この時から康之はもちろん、紹介してくれた陽一への心情は一変した。そして小笠原自身も人生観が一変し、2人を恩師と呼ぶにはあまりにも平凡すぎるほど慕った。そんな時に人生の、そして世の中の色彩がモノトーンに感じる事件が起きた。それが内ゲバ事件だった。
社会主義を幻想する呪縛から解き放してくれた尊敬してやまない人が、一夜にして自分の前から姿を消した。失意のどん底に叩き落とされたと感じるには足りなすぎる事件だった。
小笠原は無意識に川口中央警察署の前で立ち尽くし、気が付けば、
「なぜ、康之さんが殺されたんですか!?」
「犯人は分かっているのですか!?」
と一階のロビーで騒ぎ立て警察官に取り押さえられもした。この時は自分の軽率な行動を反省したが、時間が過ぎても何の進展もない捜査に「警察は何をしているんだ」という不信感が募り始めた。そしてそんな感情は徐々に「闇」という感情を生み始めた。
康之の七回忌が無事に終わった時、小笠原の中にあった小さな闇は消えたかに思えた。しかし1995年の春に江畑弘と出逢った時、この小さな闇が小笠原を支配するほど一気に繁殖した。
いいなと思ったら応援しよう!
