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第3章「被害者の過去」-3

 一方の小山と菅谷は佐藤たちを手伝いながらも、警察犬追跡の回避方法を専門家に聞く自分たちの仕事はしっかりこなしていた。2人はドッグトレーナーから生物学者まで専門家という専門家に話を聞くだけでなく、YouTubeなどのネット情報も閲覧して情報を集めていた。だが警察犬の追跡を回避する方法に関して望む答えは見つからなかった。特にYouTubeの動画では実験映像が投稿され、追跡回避が不可能であることを証明していた。小山と菅谷は結果を出せないことでの疲れもあったが、それ以上に「専門家でも分からない回避方法を素人が本当に思い付くのか?」という疑念が士気を下げていた。
 小山たちも佐藤たちと同じように結果に対して仮説を立てて、それを1つ1つ検証した。しかし追跡を回避するためには意図的に匂いを消すか、匂いが消臭するのを待つしか方法はなかった。そして警察犬が臭気を追える限界時間は一般的に8時間で、この事件では8時間以内に警察犬が出動して追跡を開始していた。だが市街地では限界時間が半分の4時間程度だとする説を見つけたが、その時間で考えても追跡は始まっていた。また雨の場合も消臭するが当日は一滴の雨も観測されていなかった。
 佐藤たちのように小山たちも共犯説を考えた。共犯者がいれば被疑者をアパート前で車に乗せた仮説も成立する。当時の捜査記録でも共犯説が検討されたが単独犯に至った結論は、逃走用車両の目撃情報がなかっただけで潰しの捜査は未了だった。
「アパート前で逃走用車両が目撃されなかったことが単独犯の根拠になっていますが、班長はこの判断をどう思いますか?」
 菅谷は浅見に質問したが、菅谷はその先にいる並木を見ていた。階級社会で浅見を無視して直接並木に質問することはできず、また佐藤たちが共犯説を否定されたことも頭にあった。並木はそんな形式的なものにこだわりはなかったが、浅見の立場を考えて敢えて口を挟まずにいた。
「当時携帯電話がなかったことを考えると、事前にすべて決めておく必要があるだろう。仮に別の場所で待っていたとしてもその目撃情報はあったはずだと思うんだが、そう思わないか?」
 浅見の答えに菅谷もそれを聞いていた小山も釈然としていなかったが、並木は菅谷を見ると、
「もう1つの理由があるとすれば、この被疑者が自分より劣っている人間と手を組むのかということだ。私はそこに根本的な理由があると思うんだが……」
 と自分の見解を付け加えた。実際に共犯者が劣っているか否かははっきりしないが、並木は敢えて「劣っている人間」という言葉を使った。
 しかし菅谷は緻密な計画の中で犯行に及んだ被疑者だとは理解していても、警察という組織に犯罪者が1人で勝つということ。さらに言えば犯罪捜査のプロと素人の違いを考えれば「逮捕できない被疑者などいるはずがない」という気持ちがあった。そこには捜査官としてのプライドと被疑者から見下されることへの憤怒が見え隠れしていた。
「この経路見分だと直線で追跡しているが、実際に直線で追跡したりはしないだろう」
 並木は警察犬の追跡結果報告書に添付された見取り図を開いて指摘した。通称「経路見分」と言われる捜査報告書には警察犬が追跡した経路の図面が末尾に添付され、追跡した経路は赤ボールペンで線が引かれていた。
「ですが被疑者の心理からすれば、少しでも早く現場から離れたい。そのためにも最短で真っ直ぐ逃げた可能性はあるんじゃないでしょうか。そして実際はフリーハンドで図面を描くわけにはいかないので定規を使っただけで、実際の逃走経路で何かあれば報告書に書いたはずです」
 小山は並木の指摘に対して自分の意見を述べた。菅谷は小山の主張に大きく頷くと並木の反論を待っていた。そんな2人に並木は腕を組むと、
「例えば途中に着替えなどを準備していたという可能性はどうだ? そうすればアパートで臭気が消えたことも説明できるんじゃないか?」
 と少し突き放すような言い方をした。反論は大いに受け入れるがすべて否定するだけでは何の成長もない。並木が望むのは自ら思考する捜査官であり、人の意見を否定する捜査官ではなかった。
 並木の言い方を敏感に察した菅谷は、
「確かに着替えた可能性もあると思うんですが、それこそ目撃者がいると思うんですよね……。それに着替えたりすれば警察犬も反応して、それに指導員も気付くと思うんですよね」
 と並木を立てながらも仮説を否定した。並木はため息にも似た息を吐くと、
「提案なんだが2人は別の捜査をしてはどうだ。それによって見えないものが見えてくると思うんだが……」
「分かりました。では被害者を再捜査したいと思います」
 小山は売り言葉に買い言葉とも思えるような苦し紛れに被害者捜査を口にした。だがそれをそのまま並木が了承したことで空気はより一層重くなった。だが並木はそれを一蹴するように、
「怨恨の可能性ももう一度考える必要があったので、やってもらえると助かるな」
 と背中を押すような言い方をした。
 現実的に考えても赤羽という大きな駅で殺害相手のタクシーに乗車できる確率は奇跡に近い。仮に順番を1人、2人と譲ったとしても目的のタクシーに乗れるはずもなく、そんなことを繰り返していればタクシー待ちをしている乗客は絶対に記憶している。しかも夜間で誰が運転しているのかも分からず、到着と同時に発車するタクシーの運転手を判別できるはずがない。だが狡猾な被疑者だからこそ確認する必要があると並木は考えていた。
 小山は軽率な発言を自省しながらも自ら口にしたことをやるしかなかった。そこにはベテラン刑事として譲れない意地がある一方で、何か結果を出したいという気持ちもあった。

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