第4章 施設「太陽の子」-1
小山と菅谷が新井の捜査をしている間、浅見は当時の警察犬の指導員に話を聞いていた。すでに小山たちが話を聞いていたが、並木から改めて指示され浅見が担当していた。当時の指導員によれば、警察犬はアパートに迷うことなく向かったが、アパートの前にあるゴミ置き場で追跡をやめた。そのため捜査員はその場にあったゴミすべてを回収して遺留品がないか確認したが、事件に結び付く物は何もなかったという。
捜査記録にもゴミ置き場に関する捜査報告書が作成され、当時は収集日の前日にゴミを出す人間や分別が徹底されていなかったこともあり、多くのゴミを回収して時間を掛けて捜査していた。当時も警察犬が苦手とする匂いの散布や水を使った消臭も調べていたが、結論は小山たちがSNSなどで調べた結果と同じことが記載されていた。
だが指示した並木は無駄な捜査だとは思っていなかった。逆に二度否定されたことでますますここにポイントの1つがあると確信した。そしてその謎を解く鍵が臭気線にあると考えていた。
警察犬は臭気線という匂いを辿りながら被疑者の逃走経路を嗅ぎ分け、臭気線が途切れた時点で追跡は中止になる。臭気線を辿るために必要なものは「原臭」と呼ばれる被疑者の匂いがする物で、遺留品が包丁しかなかったため、この事件では被疑者が座っていた後部座席の匂いから被疑者の足跡を辿っていた。つまり警察犬が追跡をやめたのは靴を履き替えたか、そこに迎えの車が来ていたか、そしてそこが被疑者の家ということになる。
被疑者は血液が付着することを想定して準備したのか分からないが、ゴミ置き場の中に靴を隠しておけば、ゴミの中から靴を持って行く人間はいない。そして新しい靴であれば自分の匂いは微香で、時間とともにゴミ置き場の匂いが靴に移れば警察犬であっても分からない。しかしアパート前で着替えていた目撃情報はない。だが靴を履き替える程度であれば、それ程の時間を要さないのもまた事実だと考えた。
並木はそんな仮説を立てていたが、検証するにも小山と菅谷は新井の捜査から外すことはできなかった。
4月12日の週末の金曜、並木は大野に頼んでいたメモの話を聞くため赤坂にいた。赤坂目附駅から溜池山王駅方向にみすじ通りを歩くと雑居ビルの地下1階に「まゆの子」というバーがある。カウンターに9席、4人掛けのテーブル席が1席のイギリスのキャバンクラブを模したレンガ造りの内装の店内は落ち着いた大人の雰囲気が漂っていた。
高級店ではあったが店主の山田祥恵が並木の大学の先輩だったこともあり、時々寄らせてもらっていた。特に客層もスーツ姿の者しか来店しないことから、話をするには都合が良かったことも通っていた理由の1つだった。
並木はウィスキーの水割りを飲みながら大野を待っていると、約束の時間から約30分遅れて息を切らせながら、
「遅れてすまなかった」
と両手を合せながら現われた。
「国会の会期中なんだから仕方がないだろう。そんな時に時間を作ってもらって感謝しているよ」
逆に並木は大野に感謝の気持ちを口にした。山田は2人の邪魔をしないように黙って大野にウィスキーを差し出すと、大野は先に一緒に出されたチェーサーを一気に飲み干した。
「並木。この事件に何かあるのか?」
大野は呼吸を整えた後訝(いぶか)しげな顔をしながら尋ねた。メモを渡された時に、
「今では考えられないこと」
と言われた言葉が脳裏から離れず、この事件を調べるに連れてその言葉が重みを増していた。
大野は警察庁に保管された資料から内ゲバ事件の記録を探した。警察庁に残されたものは事件記録ではなく、県警が事件概要を取りまとめた程度の簡単な資料だった。その資料の中に綴られたチャート図に、被害者の子供に関して「犯行現場にいたのは極秘扱い」と黒のボールペンで書き込まれていた。大野はこの書き込みが何を意味しているのか深い関心を持つと同時に、なぜ並木が知っているのかが気になった。そして並木が何を摑んでいるのかを知りたかった。
並木も事件を知った今であれば、大野が抱いている疑問も理解できるだろうと依頼理由を説明し始めた。時代が時代だったとしても、犯罪現場にいた子供を虚偽の事実をでっち上げていなかったことにできるのか。そして小山が言うように本当に子供の安全を考えただけなのか。さらには子供の所在を今も警察庁は把握しているのかをゆっくりと説明しながら問い掛けた。
説明を聞いた大野は鞄から小さなメモを取り出した。
「警察庁にあった資料によれば子供がいたのは事実だ。ベッドの下に隠しスペースがあって、そこに子供が隠れていたそうだ。子供は県警の方で探した『太陽の子』という施設に預けたそうだが、これは警察庁と県警で協議して決めたみたいだな」
「そうか……。ところで子供を施設に預けた理由は何か書いてあったのか?」
「施設へ入所させた理由は、『継続的な護衛ができないため』と書いてあったな」
「という言うことは、被疑者たちは子供がいることを知っていた。そして危険が及ぶ可能性があったということか……」
大野は質問に対して隠し立てすることなく答えたが、並木が最後に濁した言葉が気になった。
「何か思うところでもあるのか?」
「いや。何も……」
並木はそう答えたが大野の目を見るとその答えを疑っているのが分かった。特に話す話でもなかったが、隠す必要もなかったので、
「子供のことを知っていたのであれば内ゲバじゃなく、怨恨の可能性が高かったんじゃないかと思うんだが、そう思わないか?」
と説明して事件の判断が間違っていたことを指摘した。だが大野はその問いに答えられるほどの知識は持ち合わせておらず、官僚としての苦衷が回答を歪めた。
「奴らは徹底的に調べた上で襲撃するから、子供がいることくらい知っていて当然だと思うぞ。当時の判断がどんな経緯でなされたのかは分からないが、警察庁も公安事件として異議を唱えなかったのであれば、判断ミスとは思わないけどな」
キャリア官僚は狭き門を突破したエリートであると同時に狭い世界で生きているため、過去の判断を否定することが憚られる世界でもあった。したがって組織が決定したことを軽々に「間違っていた」とは口にできなかった。
大野は自分で説明しながらそれが本心でいないことは分かっていた。だが警察庁警備局の人間としていち地方警察の刑事の指摘を受け入れられないプライドがあった。しかしそんなプライドを冷めた目で受け流す並木の目は大野の胸に刃となって突き刺さった。
大野はキャリアという立場だけでなく、並木の能力に過度な嫉妬を感じていた。友達であるはずなのにどこか引け目を感じ、それは警察官僚になってからさらに強くなった。出逢った時から凄い人物だという思いはあったが、それに拍車を掛けたのが鈴木だった。自分は鈴木から称賛されたことなど一度もないが、並木に対しては「抜群に能力がある凄い奴」と常に口にしている。それが大野に劣等感を覚えさせ、嫉妬心を芽生えさせていた。
そして警察組織では上級官庁にいて、しかも階級は2階級も違う圧倒的な差がありながらも対等にすら並べていない。本来友達に上下関係などないはずだが、気が付けば階級社会に染まり、それが更に自分を惨めにしていた。
「大野の言うとおり、当事者でもないのに軽々にものを言うもんじゃないな。ただ子供は俺たちと同じ年なのでちょっと気になったんだ」
「被疑者たちが子供部屋を探した痕跡があったそうだ。だから『一家全員を殺害する予定だった可能性は否定できない』とメモにはあった」
大野はそう言って出していたメモを再び上着のポケットに仕舞うと、
「お前だから話すが、子供に関する報告に上層部の決裁がなかった。それを考えると一部の幹部で話し合って決めたんだと思う。さすがにそこは確認できないから推測になるんだが…」
と付け加えた。
「ありがとうな。捜査記録はあるんだが、検察との連絡メモみたいなものは一切残っていないから、そう言う話を聞かせてもらえると助かるよ」
並木はそう言うと、ウィスキーグラスを持ち上げて乾杯を求めると大野はこれに応じた。
殺人事件のような重要事件が発生すると警察は検察官に事件概要や捜査の進捗状況を報告する。検察官も事件現場や捜査本部を訪れるが、警察捜査に口を出すことはない。刑事訴訟法の第193条で「検察官の司法警察職員に対する指示・指揮」を規定しており、さらに犯罪捜査規範第45条でも「捜査に関する協力」を規定しているが捜査は警察の領分として口を出すことはない。ただし逮捕後の公判維持のための補充捜査や逮捕の適否のために指示は行われる。
並木が指摘した連絡メモとは埼玉県警とさいたま地方検察庁とのやり取りを残したメモのことで、このメモが一切残っていなかった。今では公務中に作成したものは公文書扱いとなるが、その時代にはそんな概念はなかった。そのためどのような指示が出され、どのような話があったのかなど「捜査記録には出てこない話」が並木にはありがたかった。
並木からの感謝の言葉で大野の気持ちは再び揺れていた。大野にはもう一つ伝えていない情報があった。それは「極秘」と指定された内容で、「守秘義務」を盾にすれば言う必要はなかった。だがそれは都合のいい噓で背信的な思いを感じていた。言い方を変えればすでに話したことも守秘義務に違反している。そのことを考えれば、重要性に差はあっても話さない理由にはならない。しかし、
「もう一つ情報があって……」
という一言が言い出せなかった。そんな葛藤の中で並木が、
「本当に助かったよ」
と笑顔で感謝を伝えたので、大野はこの言葉を区切りとして心の中で割り切った。このタイミングを見計らっていたようにママの山田が、
「頂いたものなんだけど、良かったらどうぞ」
とメロンと葡萄が盛られたフルーツ皿をテーブルに置いた。このタイミングが緩衝材となった大野は話題を換えた。
「ところで今、どんな事件を担当しているんだ?」
「今の事件か……」
大野の質問に対して並木は珍しく困った表情を見せた。そんな表情を見て「並木を悩ませる事件とはどんな事件なんだろう」と思っていると、並木は回想するようにタクシー強盗殺人事件の説明を始めた。事件概要を大まかに説明し終えた並木は唐突に、
「1つ質問があるんだが、答えが分かっているなら教えるべきなのか? それとも自分で考えさせた方がいいのか? 大野はどう思う?」
と質問した。質問された大野も目的が何であって、なぜそんな話をするのかが理解できなければ答えようもない。しかもどちらの答えにも利がある中で「やはり官僚」というべきなのか、
「趣旨が分からないが、警察組織の話であれば指揮と命令が大事じゃないのか。上司として導くことも重要だが、俺たちがいるのは警察だからな」
と言い切った。並木は被疑者が逃走時に靴を履き替えた仮説を打ち立てたが、部下たちから否定されたことを説明した。
「並木の考えを否定する人間が埼玉県警にはいるのか! それは凄いな。そいつは大天才か大馬鹿者のどっちかだろう。お前の能力に感服しないって奴に俺は会ってみたいけどな」
「そんなにからかうなよ。階級でものを言わないようにしながら捜査を導くのは難しいんだぞ」
「だが上司なんだから、言うべきことはきちんと言った方がいいと思うぞ。部下の育成も大事だが、組織としての立場もあるんだから悠長なことは言っていられないだろう」
「確かに大野の言うとおりだな。いい報告ができるように頑張ってみるよ」
大野は並木の人間臭い一面を感じると、どこかホッとした気がした。そして相談めいた話をされたことが嬉しく感じた。2人はこの話を最後に帰宅した。