第3章「被害者の過去」-2
この組分けはちょうど長机に座っていた位置で決め、隣同士で相談しやすいように配意した。各班は自分たちに与えられた捜査項目に対して何をすべきかメモしながら真剣な表情で話し合っていた。
「班長。ちょっと良いですか?」
佐藤と𠮷良は立ち上がって浅見の机に歩み寄ると2人で導いた結論を相談した。その際佐藤が並木を見たので並木もこれに加わると、佐藤は「防御痕のないこと」に対する推察を口にした。
一般的に包丁などの刃物が犯行に使われると被害者は刺されないように反射的にガードするがこれを防御痕と呼ぶ。この事件では被害者に防御痕がなく、すなわち被害者は包丁に気付く前に刺されたことを意味していた。
「タクシーの中で気付かれる前に刺せるのかという大前提がまずありますが、それにしても腑に落ちないのは解剖結果です。包丁が刺さった状況を考えると被疑者は左手で凶器を使用したことになるのですが、そんなことが可能なのでしょうか!?」
佐藤はこう前置きした後で、
「つまり被疑者は運転手の真後ろに位置することになりますが、運転手が自分の後方に座って警戒しないことなどないと思います。この事件は単独犯で捜査していますが被疑者は2人組で、2人で座ったからこそ運転手もそれほど警戒しなかったし、防御痕もなかったんじゃないでしょうか?」
と共犯者の1人が被害者の両手を抑えたことが防御痕のない理由ではないかと説明し、2人組であれば解剖結果における凶器の使用方法とも一致すると佐藤は𠮷良と導いた仮説を説明した。𠮷良は佐藤の話を黙って聞いていたが、その表情を見るとこの仮説にかなりの自信を持っていた。
並木も浅見も佐藤の話を頭の中でイメージしたが食い違いを感じたのか浅見が、
「2人組の仮説なんだが、今の話だと腹を裂くのは無理じゃないのか? 俺が運転手役になるからどう言うことなのかやってもらえるか?」
と佐藤たちに言った。佐藤は「分かんないのかなぁ」という表情を見せたが実際に再現すると、
「この二人羽織のような状態であのような刺し傷になるのは不可能なんじゃないか?」
と浅見は指摘した。その指摘を覆すだけの理論的な説明を佐藤も𠮷良もすることができずにいた。
「いきなり襲いかかると被害者は左手で刃物を避けようとした。すると被疑者はその左手を右手で押さえ込んで、そして包丁で刺したというのはどうだ?」
今度は浅見が自分なりの仮説をその場で口にした。
「運転席には防犯板(ぼうはんばん)があるので、それは無理だと思います。結局防犯板がある以上どんな仮説を立てても解剖結果と一致するような殺害方法は……」
とすぐに𠮷良は浅見の仮説を否定した。その間並木は一言も発せず黙って3人のやり取りを聞いていたが、3人が並木に意見を求めたので、
「反射という仮説はどうだ?」
と自分の考えを口にした。しかし3人はその意味が理解できず顔を見合わせながら考えた。
「刺殺の場合には防御痕が生じるが仮に突然、目隠しをされたらどうなる? おそらく目隠しを取り除こうとするんじゃないか? 言い方を換えれば、『気を逸らす』何かをしたんじゃないかと思うんだが、どうだ?」
並木は「反射」とは「気を逸らす意味」であることを説明すると、
「つまり腹部が無防備になるようなことをされたので、被害者はそちらに神経を集中させていたということですか……。起きた結果に対してその原因の仮説を立てる。立てた仮説が違っていれば、新たな仮説を立てる。つまりこれを繰り返して捜査を検証するということですか……」
と𠮷良は並木の狙いに気付いた。浅見と佐藤は𠮷良の説明でその趣旨を理解し、
「そう言うことだったんですか……」
と大きく頷いた。並木は僅かに口角を上げただけで何も言わなかったが、佐藤と𠮷良、そしてこのやり取りを見ていた小山と菅谷が頷いているのを見てやっと真意が伝わったと感じていた。
すぐに佐藤と𠮷良は並木たちに頭を下げると、もう一度解剖結果と殺害現場の捜査報告書を確認するために書庫へ向かった。
それから2人は2日かけて捜査記録を確認したが捜査記録から得られた情報は何もなかった。別の言い方をすれば捜査記録は「辻褄が合っている」「流れが整っている」という誰が見ても指摘がないように作成されていた。したがって捜査記録を見ている限りでは疑問さえ浮かんでこなかった。
壁にぶちあたった2人は浅見に指摘されて試したシミュレーションを導入していろいろな仮説を検証し始めた。この方法は実際に行動で試すためすぐに仮説の結果が明らかになった。だが障壁は防犯板だけでなく、運転席のベンチシートも障壁であることが明らかになった。運転席のシートは個別シートではなく、前に3人乗車できるベンチシートが使われていた。このシートによって本来あるべき運転席と助手席の間に空間がなく、このシートを乗り越えない限り被害者を刺すことはできないことに気付かされた。
「ベンチシートで凶器を持っていることは見えないけど、その反面襲うことも難しいですね」
「何をするにも動作が大きくなるからな」
2人はパイプ椅子を前後に並べ、段ボールを使ってベンチシートに見立てて何度もいろいろな方法でシミュレーションを繰り返した。議論しては検証し、検証しては議論を繰り返す熱意に小山も最初は「運転手ごっこ」と冷笑していたが、気が付けば全員が一緒になって議論していた。
並木は5人が議論しているのを黙って見守っていた。小山と菅谷にも別の捜査を下命していたが自分たちで答えを導き出そうとしているのを邪魔するつもりはなかった。そして渦中に入らず俯瞰(ふかん)的な位置を保ちながら5人の議論を眺めて3日目のことだった。
「しかしどうやったら防御痕がない状態で刺すことができるんだ!?」
苛立った口調の佐藤は限界を迎えていた。その一言で全員の緊張感も途絶え、嫌気が差したような表情をしていたところに並木は歩み寄って行った。
「みんなは助手席側、つまり左側からばかり考えているが、右側からの発想を考えたらどうだ」
「右側といっても……隙間なんてないですよ」
佐藤は並木のアドバイスを怪訝(けげん)な表情で否定した。そう感じたのは佐藤だけではなく、誰もが「どういう意味なのか」ではなく「何を言っているのか」と感じていた。そんな5人に対して、
「シートベルトがあるだろう」
と指摘した。この突拍子もない発想を理解できなかった5人に並木は𠮷良をパイプ椅子に座らせて自ら被疑者役を務めながら詳細な説明を始めた。
運転席に「防犯板」があることで運転手は無意識に左からの攻撃だけに意識を集中させている。だが防犯板は頭部を保護しているが後部座席と完全に隔離するようには設置されておらず「センターボディピラ」と呼ばれるシートベルトを巻き込む部分は防犯板で保護されていない。したがって運転手のシートベルトを摑むことは可能だった。
仮にシートベルトをセンターボディピラ、つまり肩越しから思いっ切り引っ張って締め付ければ、運転手は驚いて思考を停止すると同時にシートベルトを緩めようとする。その瞬間に被害者の腹部を刺したのではないかという仮説を説明した。
並木の仮説を聞いた佐藤はすぐに実車による検証を提案した。そして覆面パトカーの1台を使ってセンターボディピラ付近を摑んだシートベルトの反射実験を警察署内の駐車場で行うことになった。
警察署には一般の来訪者が利用する外来駐車場と通称「裏庭」と呼んでいるパトカーなどの警察車両を駐車している場所がある。並木たちはこの裏庭で検証を始めた。会議室と同じように運転手役に𠮷良が犯人役には佐藤がなり、センターボディピラのある付け根に近い部分のシートベルトを握って思いっ切り強く引っ張った。
やや上に引っ張ると身体が右側に寄りすぎるため刺すことは不可能だったが、手前に向けて引っ張るとしっかりと拘束されて動けなくなるだけでなく左手で腹部を狙うことも可能だった。そして運転手役の𠮷良は襷(たすき)にかかったシートベルトを握って外そうとしたが、想像以上に締め付けが強く簡単には外せなかった。そしてセンターボディピラの部分が力点になると無意識にそちらに意識が集中してしまうことも明らかになった。つまり両手でシートベルトを緩めようとするため左側はノーガードになり防御痕のない殺傷方法を作り出すことができた。
「ぶっつけ本番だったのでうまくできませんでしたが、仮説の中では一番可能性が高いですね」
佐藤は並木の描いた絵図通りにはできなかったが、何度か練習さえすれば可能だと感じた。しかしこの方法が一番可能性は高いが仮説でしかなく、この方法を使ったと断言できる証拠は何1つなかった。
そう考えると喜びも半減したが佐藤と𠮷良は結果を導けたことに満足し、そして自信を持つことにも繫がっていた。