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第5章「チラシと手紙」-1

 6月に入ると佐藤と𠮷良はアパート付近に靴を隠して、履き替えて逃走した仮説の検証実験を下命されていた。この仮説を小山たちは否定していただけに嫌みのようにも思われたが、小山たち2人には新井の捜査に全力を尽くしてもらうべく佐藤たちが担当した。
 佐藤と𠮷良はゴミ置き場に新しい靴を置き、実際に警察犬を使った検証を何度も行っていた。そして結果は正に仮説の通り警察犬は靴を履き替えるとその場で追跡を断念した。ただし靴を隠す場所は匂いの少ない所では効果が少なく、やはりゴミ置き場に準備していたものと思われた。
「履き替えたとして、それから徒歩なのか自転車なのか。仮に自転車だとしても自分のものでは意味がない。そして履き替えた後、来た道を戻った可能性もある。多角的に検討してくれ」
 夏の事件であることを考えればTシャツの1枚も着替えていた可能性もある。並木は細かく検証の条件を指示していた。指示された佐藤と𠮷良は浅見を責任者に加え、いろいろな方法を現場で試してみた。
「来た道を戻って逃げるなんてこと、あるんですかね」
「補佐の指示だからやるしかないだろう。一旦戻ってそこから別のルートで逃走した可能性も潰しておけってことなんじゃないか?」
 佐藤の質問に浅見が答えると、次に𠮷良がアパートの駐輪場を見ながら、
「この場所に新車の自転車は目立ちすぎると思うんです。だから自分の自転車で臭気線を重ねるために来た道を戻ったんじゃないでしょうか」
 と佐藤とは違い前向きな仮説を口にした。それに対して浅見が、
「それなら自転車に臭気を消すための何かをするんじゃないか?」
 と否定すると今度は𠮷良が、
「前日に駐輪すれば、匂いの影響も少ないと思います。ポイントになるのは環状線通りで、あそこは交通量の多い街道なので3時間もすれば臭気は消えると思うんです。しかも雑然と置かれた自転車を正確に覚えている方が怪しくないですか?」
 と一度否定された仮説を改めて強く主張した。そして𠮷良の仮説が警察犬を使った検証で最も可能性が高い結果を示した。𠮷良は仮説を敷衍して論じるが、信じた仮説は納得するまで意見を曲げない頑固な一面もあった。
 一方の小山と菅谷は新井の捜査をしていたが一向に進展がなかった。赤羽交通の前の職場までは分かったものの、その先の職場に辿り着かない日々が続いていた。
「実は全員で被疑者の逃走方法を捜査したいと補佐が言っているんだが、どうですか?」
「いや、あの……」
 並木からの指示を伝える浅見に小山は何も言えなかった。悔しくても結果が出せていない小山が俯いていると、
「全員で知恵を絞ってという感じなので、結果が出ていないとかじゃないみたいなんだ」
 と浅見は説明したが、小山も菅谷も慰めにしか聞こえていなかった。しかし強気に出たところで結果が出せる自信もなかった2人は素直に提案を受け入れた。
 並木は小山たちの捜査を否定していたわけではなかった。だが近視眼的な思考から一旦離れて俯瞰することで見落としていたものに気付くのではないかと考えていた。
 並木が登庁すると浅見はすぐに小山たちが了承したことを伝えた。並木は何も言わずに頷くと一度全員の顔を見渡した。
「この捜査の鍵となる1つが新井だと思っている。その捜査に全力で臨むためにも先に足取りを掴んでおきたい。ここでは自宅(ヤサ)を見つけるのではなく、逃走経路のイメージを掴むことが目的だ」
 説明を聞いた小山がホッとした表情をしたのを並木は見逃さなかった。それ程プレッシャーを感じていたのであれば、良いタイミングになったと感じた。そして菅谷も「捜査の鍵」と言われた発見をした自負から口元が緩んだ。
 並木は被疑者が自転車を利用した可能性と逃走方向に関しての自分の見解を説明した。自転車の利用は素早い逃走と警察犬の追跡を回避することが目的だったと考えたが、そう判断できる決定的な根拠はないと説明した。
 逃走経路に関してはアパートの北方から東方に産業道路という国道が走っている。産業道路は交通量も多く、事件を認知したパトカーが緊急走行で通って来る可能性が高い。一方の北側は真っ直ぐ進めば川口駅がある。深夜でも繁華街があることを考えれば行くはずがない。そして南側は犯行現場で多くの警察官が臨場している。それぞれの地理的条件に対して消去法で考えると西側に逃走した可能性が高い。それを被疑者の逃走方向として考えれば、被疑者の自宅があった場所は警察犬が追跡をやめたアパートの西側地域だと並木は考えた。
「地図はあるか?」
 並木の説明が終わると小山はすぐに住宅地図を机に置くと地図を囲むように全員が集まった。小山は住宅地図を捲りながら西側付近のページを開くと、右手人差し指を地図に当てながら何かを探し始めた。そして、
「これを使ったんだろうな!」
 とある場所を指さした。小山が示した場所を誰もが注目すると小山は自信たっぷりに、
「寿町第2地下道に間違いないと思う」
 と言い切った。
「どう言うことでしょうか?」
 𠮷良は小山に説明を求めた。
「寿町第2地下道は昔からある東口と西口を繋ぐ連絡通路だ。この通路は車道と歩道が分かれているんだが車道はかなり狭い。そしてパトカーが検問するにも駐車場所がない。西側に逃走したなら間違いなくこの道を使ったはずだ」
「確かにあの地下道の手前で自転車を乗り捨てたら100%職務質問を受けることはないでしょうね」
 佐藤も地下道のことを知っていたので小山の説明に納得した。佐藤の話が終わると再び小山は腕を組みながら、
「俺は昔の川口を知っているが、今でこそ再開発されているが、昔の西口は借家やアパートがいっぱいあった。今も被疑者が住んでいるとは思えないが、当時西口に住んでいた可能性は十分ある」 
 と自慢気に話をした。小山の話を聞いた浅見は、
「じゃあ、早速検証してみるか!」
 といつになく積極的に行動しようとした時、菅谷が恐縮したような言い方で、
「1つ聞いても良いでしょうか……」
 と並木を見た。並木は黙って頷くと菅谷は「今更」という恐縮した表情で、
「仮に被疑者が分かってもそれはすべて推理というか、被疑者と事件を結び付ける物証がないのですが、どうやって被疑者を逮捕するのか。私には全くイメージができないものですから……」
 と質問した。
「それは……」
 浅見は質問に答えるつもりでいたが、言葉が続かなかった。そして誰もが俯いたり、並木の顔を横目で見たりと答えを並木に求めた。ただひとり小山だけは、
「みんな被疑者が捕まるとは思わずに捜査していたのか!?」
 と啖呵(たんか)を切った。だがやはり小山もその後は続かなかった。
「証拠から被疑者を割り出すのは一緒だ。ただこの手法はたぐり捜査に近いが、今の時代は物証がなくても状況証拠で疑うに足りる理由があれば逮捕も可能だろう」
「しかし現実問題として、被疑者を割り出すことなんてできるのでしょうか?」
 並木の説明に𠮷良は理論的には理解しながらも、現実的に可能なのか疑問に感じていた。
「頭で考えると非現実的な話に思えるだろうが、未解決事件を科学捜査以外の方法で解決するには、新たな手法や思考で挑まなければ結果は出せないんじゃないか? 捜査官は捜査官として与えられた役割を愚直に果たす。俺たちに求められているのはそれだと思うんだが」
 この言葉を聞いた5人は何も言わず黙っていた。並木が着任してから捜査方針や考え方は耳にしてきたが、立証方法を聞いたことはなかった。ただ「新たな手法と思考」が具体的に何であるかを聞きたかったが「役割を愚直に果たす」ためにも、
「それじゃ、みんなで地下道に行くか。科捜研が被疑者を見つける前に、俺たち捜査員は足で稼がないとな」
 と浅見が声を掛けた。すると小山たちが何も言わずに捜査へ出掛ける準備を始め、
「では補佐、現場に行ってきます」
 と一礼すると浅見たちは地下道へ向かった。そしてこの日から3日掛けて検証が始まった。
 関東地方が梅雨入りした6月17日は雨曇りの天気だった。実際に自転車を持ち込んでみたり、アパートから走ってみたり、逃走経路として使用した可能性のある寿町第2地下道までを何通りもの方法で試した。時間も当時の通報から緊急配備が発令されるまでの時間を調べ、その間にどこまで逃走できるのか時間も計った。
 結果は地図で感じた以上にアパートと地下道までの距離は近く、自転車を利用すれば通報前に通り抜けている可能性すらあった。つまり被疑者が地下道近くに住んでいれば、緊急配備が発令される前には余裕で自宅に戻ることが可能だった。
 ただ被疑者が西口に住んでいたとする証拠は何一つない。だが反対口で事件を起こし、緊急配備の発令前には自宅に逃げ帰りたいという被疑者心理を考えれば、この仮説は十分にあり得る話だと浅見たちは感じた。裏付ける証拠が何一つない単なる仮説の中で並木は、
「イメージができたのであれば、それ以上は必要ない。この仮説を基に一考を案じているんでな」
 というと刑事課長のところへ向かった。
「効果はあるのか?」
「費用対効果の効果をどう見るかによると思いますが、私は面白いと思っています」
 刑事課長は並木の提案に否定的だったが、並木は刑事課長に強く要望した。
 並木は1ヵ月後に迎える事件発生日の8月1日に、事件情報を求めるチラシの配布を考えていた。仮説ではあるが逃走経路が特定できた今、情報を求める理由になっただけでなく発生日という絶好のタイミングも重なっていた。刑事課長はチラシなど配っても意味がないと思っているが、並木の狙いは違っていた。並木は被疑者へ向けてのメッセージとして考えていた。
 一般的な「警察は今も諦めていない」「みなさんのご協力をお願いしたい」という目的ではなく、スリープ状態の被疑者を動かしたいと思っていた。一般的にスリープとは「犯罪をやめている」という意味で使われるが、並木は再び犯行の機会を窺っているとは思っていなかった。だが被疑者は捜査の進展状況を今も気にしていると考えていた。したがってアクションを起こせば何らかの反応を示す可能性があると考えた。そのためにチラシも単に事件を風化させないためのチラシを配るのではなく、「被疑者が通った寿町第2地下道の目撃情報」と具体的な情報を求めるチラシを考えていた。
 並木は刑事課長への説明を終えると捜査第一課長や川口中央警察署長に承諾を得るために説明した。どちらの両幹部もやはり否定的な反応ではあったが、
「まぁ駄目だという理由もないからな……」
 ということで承諾を得た。並木はどこで何枚チラシを配ろうがどうでも良かった。一番気にしたのはメディア広報だった。新聞への掲載や地元テレビなどニュースで取り上げてもらえるかがすべてだった。そのためにも広報担当である捜査第一課の清野次席や川口中央警察署の副署長にお願いして、メディア各社に対する事前広報を徹底してもらった。
 並木はチラシを配布する2週間前の7月18日、浅見たちに朱色に金文字で「捜査」と入った腕章を付けて川口駅前でチラシ配布を予定していると説明した。するとここでも部下たちは否定的な反応を示した。浅見たちは配布作業を嫌ったのではなく、やはりチラシそのものに対する効果に懐疑的だった。
 しかし並木がその目的を説明すると、
「狙いがそこだという事であれば非常に面白いと思います。それは被疑者も嫌でしょうね」
 と菅谷はすぐにでもチラシを配布すべきだと賛成した。そして菅谷だけでなく、他の者たちも頷きながら趣旨を理解した。そしてチラシの配布によって副次的な効果が浅見たちに見られた。それは被疑者の視線である。
 誰もが被疑者を意識することはなく、ただ自分たちの捜査を黙々と進めていた。だが並木の説明が至言(しげん)となって、改めて被疑者に見られているような視線を気にするようになった。これも並木が狙った意識改革の一環だった。
 そして8月1日を迎えたが結果は予想していた通り善意の通報だけで、被疑者に繫がる情報はなかった。だが誰も落胆することはなかった。むしろいつ、どのような反応があるのかを誰もが期待せずにはいられなかった。

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本郷矢吹
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