第4章「施設「太陽の子」」-2
大野と会った翌日の4月13日の土曜、並木は内ゲバ事件の子供が預けられた「太陽の子」を訪ねた。資料では「太陽の子」は埼玉県内の奥秩父の山間部となっていたが、秩父鉄道の秩父駅からタクシーに乗ると、
「そんな施設、あったかな?」
と地元のタクシー運転手は聞いたことがないという。タクシー運転手に住所を告げると、
「私も35年近くここで運転手をしていますけど、『太陽の子』という施設は聞いたことがないですね」
と言いながらカーナビに住所を登録した。
並木は運転手の話を聞きながら「預けたとされる施設そのものが嘘だったのだろうか」と考えたが、警察庁の資料でも施設の存在は否定していない。さすがに警察庁の資料までが噓だとは思えなかった。そして一方では単に施設名を変更しただけのようにも思えた。だが余計なことを考えるのをやめて車窓から秩父の街並みを眺めた。
秩父駅は駅前にちょっとした飲食店は点在しているが、メインの繁華街は秩父神社にある番場通りにあった。しかしその繁華街を避けるようにタクシーは駅前通りを抜けて国道140号線を山梨方向に向かった。車窓からは石灰石で有名な武甲山が左手にそびえ立ち、時間とともに車道の脇に木々が目立ち始めた。木々に囲まれた道はいつしか登り坂になり山道へと入って行った。
「ここを右かな……」
運転手はカーナビで示された脇道を曲がると道幅は極端に狭くなり、しかも暫く走ると轍にさえ雑草が茂っていた。この道路状況を見ただけでも滅多に車の往来がないのが分かる。そう考えるとこの先に本当に施設があるのか疑問を感じた。そんな狭い山道に運転手も不安を感じて、
「車で進むのはこの辺が限度ですね。道はあるんですが、戻れなくなると困るのでここで大丈夫ですか? すいませんね。必要ならこの辺で待っていますけど、お客さん、どうされますか?」
「必要なら電話をしますので、連絡先を教えてもらえますか?」
並木は携帯電話を取り出すと、電波の受信状況を確認しながら運転手の連絡先を入力した。そしてタクシーを降りると雑草の伸びていない轍の細い部分を歩き始めた。
どのくらい先に施設があるのかも分からなければ、本当に施設があるのかも分からない。ただ道があるということは、人家なり抜け道なりの目的があって作られた道であることは確かである。木々で覆われて影になった林道を一歩、一歩施設があることを信じながら進んだ。
30分も歩くと突然、道が開けたかと思った先に木造平屋建ての一軒屋とプレハブのような倉庫が目に飛び込んできた。「やっぱり本当だったのか…」と思いながら建物に近付くと、施設の出入り口に黒く変色した木の板に墨汁で「太陽の子」と書かれた看板が掛けられていた。手書きで書かれた看板は四隅がすでに腐れ落ち、その姿を見ればかなりの年月風雨にさらされているのが理解できた。
太陽の子が存在したのは事実だったが、空き家になって久しいことは看板だけでなく、周囲に生い茂る雑草、そして朽ちかけた家屋の外観を見れば一目瞭然だった。並木は中を覗こうと門扉に手を掛けたが錆びて動かない。塀らしい塀もなかったが胸の高さまで生い茂る雑草を考えると、門扉を乗り越えてでも正面から行くのが正解に思えた。
朽ち果てたプレハブの中を覗くと保育所のような施設になってはいたが、単に子供たちを預かるだけの施設ではなく、衣食住を伴う孤児院のような施設だったことが分かる。しかし室内には机ひとつなくすべて整理された状態で「閉院」され、廃墟ではあったが悪戯された様子はなかった。
出入り口や窓には鍵が掛けられ、窓から中の様子を窺い知ることはできても入ることはできなかった。だが中に入っても子供に繫がる手掛かりがあるとは思えず、施設を確認できたことで目的を達することはできた。だが次に繫がる手掛かりが得られなかったのは残念に思えた。
登って来た道には更に奥へと続く道があり、どこに繫がっているのだろうと思い歩き始めると施設のすぐ裏で行き止まりになっていた。つまりこの道には民家は一軒もなく、帰るには来た道を戻るしかなかった。歩けば一時間は掛かるような場所に施設を作った理由も知りたかったが、こんな場所でどうやって施設を運営していたのかも興味を惹かれた。
「とりあえず、歩いて戻るか」
自分に言い聞かせるように来た道を戻り始めた。そして車道まで戻ると次に登るべきか、下るべきかを考えた。どちらに進んでも話を聞けるような民家があるようには思えなかったが「途中にあった家は戻る時に立ち寄ればいいか……」とさらに登ることに決めた。
30分近く車道を歩くと農家のような古い造りの「近所の家」があり、外観からして昔からこの地で生活していることはすぐに分かった。しかも納屋の前にちょうど年老いた男性がいたので声を掛けると、人が滅多に訪れることのない場所での珍客に驚いていた。
「あぁ、長谷部さんの……」
男の話では「太陽の子」は自治体からの支援を受けることなく、長谷部という当時55歳くらいの夫婦が営んでいた施設だという。この夫婦はどこかの会社を定年退職して施設を開院したが、最初は施設だと分からず2人の子供は息子か孫だと思っていた。だが農作物のお裾分けで訪ねると、
「何か社会の役に立ちたいと思い、身寄りのない子供を預かることにしたんですよ」
と話したという。それから「何か手伝えることがあれば」と近所付き合いが始まり、施設内での作付けを手伝ったり収穫物を提供したりしていた。
夫婦の年齢と施設の運営資金の問題から最初に預かった子供以外は預かることができず、預かっていた子供たちが独立したのを機に閉院したという。子供たちが施設を離れた後の老夫婦は夫、妻の順でこの世を去り、その後施設はこのままの状態で放置され現在に至ったという。
「そうだったんですか……。どうもありがとうございました。ところで長谷部さんがここに来たのはいつの頃だったか覚えていらっしゃいますか?」
「確か俺が42の時だったと思うから38年前じゃなかったかな。川口から来たって言っていたと思ったけどな。あんた、この施設の子じゃないよな」
「いいえ、違います。私は警察の者なんですが……」
と言って警察手帳を見せると並木は、
「もう一度お聞きしますが、施設の子供は2人だけだったんですね」
と子供の人数を確認した。
「そうですよ。2人だけだったけど、何かあったんですか?」
「捜査でこの施設の名前が出てきたのですが、本当にあったのかの確認で。ネットで調べても分からなかったものですから」
「昔の施設だかね。長谷部さんが犯人とかじゃないんでしょ? あの人は本当にいい人だったからね」「そう言うのではありませんので、ご心配なく。ところで2人の子供は男の子ですか?」
「そう。全員、男の子だったよ」
「勇君という子でしたか?」
「名前は覚えてないな。『勇』って子がいたような気もするし、いなかったような気もするし、どうだったかな。ただ2人とも長谷部さんが養子縁組したって言っていたよ」
「分かりました。ありがとうございました」
並木が頭を下げて立ち去ろうとすると、
「町までどうやって戻るんだ? 送ってやろうか?」
と親切に声を掛けてくれたが並木はタクシーが待っていると告げ、改めて深々とお辞儀をしてこの家をあとにした。
並木はタクシーを呼ぶこともなく、のんびりと来た道を歩きながら聞いた話を整理していた。大きな成果としては「長谷部邦夫」という人物と「太陽の子」が繋がったことであり、そして「太陽の子」が実在していたことだった。他でも話を聞ける民家があればと思いながら歩いたが、話を聞ける家はなく、また長谷部と親しく付き合っていた家は最初に訪れた家以外にはなかった。
この後並木は長谷部の戸籍などから時間をかけて「預けられた2人の子供」を調べ始めた。だが戸籍を取り寄せたが再び大きな壁に阻まれた。聞き込みしたとおり長谷部夫婦の間には子供はいなかったが、戸籍上では養子縁組をしたのは2人ではなく3人になっていた。その3人目の子供が「高樹勇」で三男として養子縁組をしていた。
戸籍という絶対的信頼のある記録に養子縁組したことが記載されていながら、聞き込みの話とは食い違っていた。男の記憶を疑うことや噓を吐いた可能性も考えたが、送迎を申し出る優しさに噓は感じなかった。そして唯一の可能性は「施設には預けていなかった」ことだが、それを知るのは当時施設にいた長男と次男である。
そして並木を一番驚かせたのは長谷部夫婦が死亡した後も高樹勇だけが戸籍に残っていたことだった。住所も施設のままである勇は一体どこへ消えたのか。それを長男の「一馬」が知っているのかを確かめることが次の課題だった。