
第7章「立証の苦悩」-7
次の日、並木は入水事案のことを理由に、
「川口中央も忙しいでしょうから2人の捜査員は自署で運用してください。また必要になった時には差し出しをお願いします」
と刑事課長に具申した。刑事課長も政治的な成り行きから捜査員を差し出していたので、2人の捜査員が戻ってくることを歓迎した。
並木は川口中央署員が捜査していた「墓」の捜査を部下たちに下命する予定でいたが、どの場所を捜査するかを決めかねていた。江畑の捜査で浅見以下全員を長野に派遣したように、都内を全員で一斉に捜索するか、2班に分かれて長野と都内を捜索するかなかなか結論を出せなかった。
「都内、特に大田区とその周辺の寺を全員で潰そうと思う」
並木はそう言うと全員を大田区周辺の寺に投入することを決めた。並木は長野で納骨した場合に新井が死亡したことが発覚する可能性があると考え、墓は都内にあると推察していた。また墓の管理費用の支払いなど、管理にかかる都合もそう判断した理由の1つだった。
浅見たちは分かれて大田区を中心にすべての寺の聞き込みに当たったが江畑の墓はなかった。やはり長野に納骨されたのだろうかと思われたが佐藤は、
「都内では墓も安くはないので納骨堂も調べたらどうでしょうか」
と提案した。埼玉県ではあまり馴染みがないため小山は、
「納骨堂!?」
と説明を求める言い方をした。たが佐藤の話を聞いた並木は直ぐに納骨堂も対象に入れた。
すると翌日には共同供養をしている納骨堂で江畑の納骨を確認できた。この納骨堂は大田区内のビル内にあり、参拝室で待っていると納骨された厨子(ずし)と呼ばれる収納具が自動で準備されお参りできる。そして埋葬の手続きをした人間が新井定一であることも確認できた。
死因は不明だったが江畑が納骨の手続きをしたことを踏まえれば、新井は病死で死亡したのは間違いなかった。そして納骨堂の管理費はタクシーの事件発生まできちんと支払われていた。ただ入れ替った理由はいまだに不明で、それは推察することさえできなかった。
ここまで詰めの捜査をしても江畑が江畑として活動していた時の写真を入手できず、仮説は最後まで仮説のままだった。上京前の写真も履歴書の写真も残っていないだけでなく、決定的な問題は新井が運転免許証を取得していないことだった。
日本は1950年頃から60年頃までは白黒テレビ、洗濯機、そして冷蔵庫が3つの神器と呼ばれ中流家庭を示すものとしてブームとなった。その後の1960年代中盤にカラーテレビ、クーラー、自家用車が新3つの神器と言われ、この頃になると運転免許証を持つ者も急増した。
したがって2人が出逢った頃はそのブームが始まった時期と重なるが、2人とも免許証を取得していなかったことは偶然ではなく必然にさえ思えた。仮に新井が運転免許証を取得していれば江畑が新井の名前で免許証を更新すれば直ぐに分かったはずである。
警察では運転免許証を取得、更新した際、顔写真付きの資料を保管する。そのため成りすまして運転免許証を更新すれば直ぐに発覚するが、江畑自身も運転免許証を取得していなかったために発覚することはなかった。
警視庁で運転免許証の取得状況を確認した結果、江畑が運転免許証を取得した事実はなく、新井は1971年に免許証を取得している。江畑の死亡日が1965年5月だったことを考えれば、新井が死亡してから6年後のことである。
またタクシーの運転手になるためには「2種免許」と呼ばれる運転免許証が必要で、2種免許を取得するためには3年の運転経験が必要だった。江畑は1980年に2種免許を取得しているが、赤羽交通に就職するまでの間、何を考えて2種免許を取得したのかも疑問だった。
運転免許の取得に関して1つ言えることは、江畑は運転免許証を取得したことで完全に新井定一に成りすますことに成功した。パスポートを持たない江畑にとって顔写真が付いた運転免許証は正に完璧な身分証明書だった。
いいなと思ったら応援しよう!
