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第8章「暗号の人物」-6

 並木は川口市内にあるタワーマンションに住んでいた。東京都との都県境付近にあり、埼玉県内では一番高い高層マンションでその23階に住んでいた。3LDKという独身としては広すぎる間取りで、ペットもいない室内は水を打ったように静かだった。並木は時にクラッシックを流したりもするが、この静まり返った静寂な空間が好きだった。特に夜景を楽しむわけでもなく、リビングに置かれたソファに腰掛けるとテーブルに置かれた読みかけの本を開くのが日課だった。
「どうぞ、上がって」
 並木がショートメールを送った相手は小沼だった。並木は暗号を見た時に最初に頭に浮かんだのが小沼だった。それは小沼に一緒に暗号を解いてもらいたいのではなく、確認したいことがあったからだった。
「文乃に聞きたいことがあるんだが、暗号解読の話を教授に話していないか?」
「教授に?」
 小沼は一瞬考えると、
「話したと思う」
 と答えた。予想していたことではあったが、並木は震撼する思いがした。その時だった。
「義光さん! 義光さん!」
 並木は小沼の叫ぶ声の中、意識を失っていった。額に手を当てると高熱で両手には発疹が見られた。
「これは……」
 単なる風邪やコロナウィルスなどとは違った症状に疑問を感じた小沼は靴下を脱がせた。すると同じく両足にも発疹が出ていた。「もしかすると……」と思った小沼は並木の身体を調べ始めると右腕の部分に虫に刺された痕を発見した。救急車も考えたが知らない医師に診察させるよりも自分で診断した方が間違いない。そう判断すると並木を自分の車に乗せて東都医科大学附属病院へ向かった。
 病院に到着した小沼は直ぐに並木の血液を採取して調べるとC反応性タンパクが向上し、血小板が減少していた。そして肝酵素が上昇していたことから、最初に所見した「日本紅斑熱」の症状と一致していた。この日本紅斑熱はマダニに刺されたことで発症するもので、右腕に虫に刺された痕があったのが決め手になっていた。
 日本紅斑症はマダニに刺されてから一週間程度の潜伏期間後に発症するが、抗菌薬を投与すれば完治するため、小沼は直ぐに投薬措置を講じた。その結果症状は回復した。
「ここは……」
 並木が目を覚ますとそこは病棟のベッドで小沼と小笠原が心配そうに見つめていた。
「警察の方にはお父さんを通じて、体調不良で入院したと連絡したので心配しなくて大丈夫だ」
 小笠原は職場に連絡したことを説明した。すると、
「気分はどう?」
 と心配そうに小沼が声を掛けた。だが並木は自分が置かれている状況を全く理解できなかった。そんな戸惑っている並木に小笠原は、
「マダニに刺されて日本紅斑症を発症したんだが、抗菌薬を投与したので心配はいらない。ただ職場には『疲労』ということで説明しておいたよ」
 と含みを持たせる言い方をした。そして小沼に目で合図を送ると小沼は察したように病室を出て行った。個室の病室内で2人だけになった小笠原はこの時を待っていたかのように、
「義光君。聞きたいことがあるんだろう」
 と顔を見ながら言った。並木はゆっくりと上半身を起き上がらせると、しばらく黙っていた。
 川口中央警察署に送られてきた、
「0341 0106 0352 4545 
 無血による新たな被害者
 諸越列子」
 の数字の部分をJIS規格で解読すると「I・T様」となる。そして「諸越列子」の「諸越」はもろこし、つまり中国を意味している。次の「列子」は中国の戦国時代の哲学者の尊称で、伯牙の弾く琴を鐘子期がよく理解していたことを例えて親友、知人を意味していた。
 この「I・T様」は内ゲバ事件で生き残った「高樹勇」であることに並木は気付いた。なぜならば内ゲバ事件で唯一生き残った子供は並木本人だったからである。そしてこの手紙の差出人は並木が高樹勇であることを知る人物からで、「無血による新たな被害者」の意味はタクシー強盗殺人事件の被疑者の逮捕は並木が警察官として、そして人生が終わるという警告を意味していた。
「なぜ、あんな事件を……」
「それを話せば長くなるが、簡単に言えば『警察への逆恨み』であり、違う言い方をすれば『人助け』とも言えるのだろう……」
「どう言う意味ですか?」
「私は並木先生とも親しかったが、君の本当のお父さんだった高樹康之さんとも親しかったんだよ。まぁ、親しかったというよりは、お世話になっていたという言い方が正しいんだろうな……」
 小笠原は回想するように言うと、窓際へ歩を進めて外を遠く眺めた。

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本郷矢吹
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