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科学は思考停止を招き、悲しみを超える勇気を与える

妻が、流産した。
想像していたより、悲しい。子供ができた後のことを考え、日々を生きていたから。

正直、ここまで感情が動くと思っていなかった。

頭では、流産は15%程の確率で起こるからうちにも起こりうるとずっと思っていた。しかしながら、いざ自分の身に起こると辛い。何より妻が悲しそうなことが辛い。

このような悲しみに暮れている時、人は「なぜ」と言う理由を求めたがる。「なぜ自分たちなのか」、どうしてもこの問いが脳裏に浮かぶ。理由を求めてやまないのは、人間の性だと思う。

人は、「なぜ」に納得を持てないと、前を向いて動き出すことが難しい。
しかし、本当は、世の中で起きている現象に理由なんてないのではなかろうか。

今回の私たちの流産も同様。ただ、おなかの中にいた胎児が成長できなかっただけ。理由なんてなく、ただそれだけだ。

しかし、妻は泣きながら何度も理由を求めた。そんな時、科学は理由や解説を与えてくれる。

・染色体異常によるもので選ばれた卵子が悪かっただけ。
・母体が悪いわけではない。
・妊婦の40%が流産を経験している。
・妊娠のうち、15%程が流産で終わる。
・流産のうち、80%が妊娠12週未満で起こる。

科学は拠り所を与えてくれる。おかげで、私達には子供が早かったのだろうか、神様がNGを出したのでは、母親が動きすぎたのだろうかなど悲しみが深まる方向に思考を巡らさなくて良くなる。

これはこういうもんだと割り切れる。「科学がこう言っている。」と言うところで思考停止できるのだ。

この思考停止は大きい。前向きに思考を変換させるきっかけとなるからだ。

一方で、この科学という絶対的で揺るがない客観性の強そうなものは、本当に正しいのだろうか。

決して、そんなことはない。科学は決して正しくなんかない。言ってしまえば、宗教と同じだ。

例えば、天動説は分かり易い。当時の人は科学的に天が動いていると思っていたはずだ。つまり、科学は客観性を担保して絶対的に思えるが、別に絶対的に正しいわけでない。

現代にとっての天動説が何かは分からない。ただ、何か現代にとっての天動説があることは確実と言えるのではないだろうか。我々は絶対的でないものを絶対的だと信じ込んでいる可能性がある。

であれば、科学は、宗教は、否定されるべきものなのだろうか。

結論、決してそんなことはない。科学や宗教のおかげで人は前向きに生きていける。

人間には理由を求める本能がある。しかし、世の中にあるすべての事象に理由なんてないかもしれないし、理由めいて見えるものは別に絶対的に正しいわけではない。

このように、理由なんてないと言える中、理由を追い求め続けたら何もできなくなる。

人はどこまで行っても分からない理由なんざ求めずに、今の条件を所与のものと捉え、前向きに行動することでしか楽しく生きて行けない。

今回、私たち夫婦は考えることをやめ、科学という宗教を信じ、流産は所与のもので仕方なかったと信じた。本当は、私たちどちらかのせいかもしれない。けど、科学と言う宗教を信じることにした。

この思考停止が、明日への活力となり、勇気となることを信じて。


いつもと違う感じで書いてみました。

流産はとても悲しかったです。しかし、私たちにできることは前向きに行動していくことだけです。

その過程で、科学を信じてみました。どこかで前提を置いて、「これはこういうものだ」と割り切っていかないと何もできないですよね。

このような書き方も面白いですね。来週もまた更新します。

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