さぁ、教師の世界から飛び出すぜー!!
ちゃんとした大人(ぶるの)、辞めました!
2023年3月、16年間続けた中学校の先生を退職しました!
こんにちは、谷平 亘(たにひら わたる)です。
小さい頃からいい加減で、集中力もなく、忘れ物もクラストップを常にキープしていた僕が、奇跡的に教師になれたのが16年前。
「こんな俺みたいな、いい加減なやつが教師をするチャンスをもらえるなんて!」「この縁は大事にしなあかんなぁ・・・」としょっぱいやつなりに、16年間ちゃんとした先生をやってきました(つもりです)。
めちゃくちゃ良い出会いや、心震えるような感動、びっくりするような理不尽、どうやって切り抜けたのかわからないような困難、いろいろな経験をさせてもらいました。そういった与えていただいたいろいろな経験に感謝しつつ、この度退職をしました!
ここに至るまでの経緯や、思っていること、これからどうするのかを記録していこうと思います。
「これは教師を辞めなあかんな」と思い出したのが4年前。
それなりに教師としての経験やスキルを身に着けたつもりでいましたが、どうあがいても周囲と調和がとれない。やることなすことうまくいかないという時期がありました。
「自分に問題がある」
「自分の力不足だ」
と、自分の力量や適性を疑い、このまま肩身を狭くしながら教師を続けるのか、と愕然としていました。そうした中で、
「そもそも俺ら大人は、生徒に何を教えているんだろう?」
「公教育で生き方を教えてるはずなのに、なぜ公教育の場には苦しみがあふれているのだろう?」
「これは俺だけの問題じゃなくて、教育の現場どこでも起きている問題なんじゃないだろうか」
という疑問が湧いてきました。
誰が悪いということではなく、雰囲気やシステムに苦しみを生み出す原因があるんじゃないかと考えるようになりました。
ブレイクスルーを生んだ原っぱ大学との出会い
第3子が産まれたのを契機に、時間の使い方を変えて、自分の「?」と向き合う時間を意識的に増やしました。
子どもの前で苦い顔して過ごす自分も嫌なんで(笑)。
そして出会った原っぱ大学。
なんてエモいネーミングやねん・・と思いながらザーッとHPを一通り読みました。
「わお!」「なんてコンセプト!」「会いに行こー!」
読みだして、原っぱ大学が何をしている集団なのかを理解しだしたころには、ガクショー(代表)の塚越暁さんに会いに行くことを決めてました。
思えば、ここから自分の教育的価値の転換は急激に進んだように思います。
原っぱ大学って何なんだ?ってのは後々紹介しようと思いますが、
僕にとっては
「教えようなんておこがましい!一緒に楽しみたまえ!それで十分!」
というのが原っぱ大学の場が、僕に語ってくれたメッセージです。
それから本当に変わりました。
人を見る目が変わったし、かかわり方が変わったし、授業が変わった。
変化が変化を呼んで、常に視点を変える自分が育っていきました。
そうしているうちに「教育の本当の狙いは別のところにあるんじゃないか」と考えるようになりました。
いったい誰が偉いのか
原っぱ大学と関わるようになって、こどもたち(0~15歳)のいろんな側面を見られるようになりました。そして、それを見守る大人たちの姿にもたくさん触れることができました。
子どもの挑戦を見守る大人の姿、どれだけ尊いか・・・。自分の子じゃなくてもめちゃくちゃ良い顔で大人は子どもを見守る。
「なんて関係性や、サイコー!」
そんな場面がいっぱい。
一方で、幸せに生きる力を身に着けるために通う学校は、学力不安・人間関係・同調圧力・他者比較・優劣感情とか、そんなものがいっぱい。
そして恐ろしいことに、そういったことは学校で起こることとしてはほぼ明言化しないので(問題としては取り上げられる)、学校がもちうる機能には含まれていない。
この学校の機能として認識されていない部分が、どれだけ人の内面や人生を狂わせているんだろうか?
これってほんまに必要なことなんだろうか?
そういう育ち方をした人が、社会を形成するということは、同じこと(比較・優劣社会)を繰り返すんじゃないだろうか?
こうゆう負のスパイラルに僕らは、知らず知らずにはまっているのではないだろうか?
という疑問が生まれ、そして
なぜ中学生の成長を僕らはニコニコして見守っていたらだめなんだろうか?
勉強が嫌いなことはそんなにあかんこと?
できないってそんなに否定されないとあかんのかな?
宿題しないと社会で通用しない?
先生と考え方違ったら、そんなに否定されないとあかん?
みんなと一緒はなんでそんなに正義なん?
など、常識だと思っている私たちの在り方への疑問も生み出しました。
この不思議には、人生をかけて挑戦する価値があると思いました。
僕の感覚では、どう考えてもみんな尊いんです。
その人の、その人ができることに取り組むこと、挑戦する姿、それを見守る人、どの年齢であってもそれは尊いはず。
何歳から見方を変えないといけないなんてことはないはず。
でも学校システムが生み出すのは、「偉い人が尊い」、という価値だと僕は思っています。
ここで言う偉い人とは学力や表彰など、一般的に注目されやすく可視化できるものです。
どこの高校に行くとか、どこに就職するとかもそう。役職もそう。収入もそう。そういう偉い人レースをずーっとやってます。
そして偉い人レースをやっているうちは、自分より偉い人を探して、自分より偉い人の言うことを聞き続けないといけない。
そしてそれが当たり前だと、僕らは思い込んでいる。
偉さ、尊さっていうのは、実はそこかしこに存在していて、僕らがそのことに気付くセンサーを使っていないんじゃないかなって思う。
子どもだって時には大人の師匠になっちゃう、好奇心のセンサーどんなけビキビキに作動してるねん!と感動してしまう。
そうして僕は、「本当の育ちってなんだろう?」というのを追求するために、退職することを決意しました。
何をめざすのか
退職をして何を目指すのか。
「自分を変えて、世界を変える」
これが目標です。
世界とは「自分が見ている世界」のことです。
僕たちが見ている世界は、実は同じ世界を見ているようで
1人1人違うと思うんです。
そして、そうあることが正しいと思っています。
今、1人1人の世界の違いを認めずに
全員が同じ世界を見るように、同じ価値観で生きるように舵を切られているように感じています。
政治がそうしてる?そんなこともないです。
僕たちが、知らず知らずの積み重ねで、どんどんどんどんそういう方向に
自分たち自身を向けていっているのだと思います。
そういう時代を終わらせるために、退職し学校を作ろうとしています。
自分が、自分が作る学校がそんなことをできるなんて思っていません。
「今、変わる時だな」って思っている人がきっと日本中・世界中にいてる。
「違うな」と思っている人でうねりを作って、全体に影響を与え、
人類が目指す方向を変えたいと思っています。
容易ではないけど、今の子どもたちが大人になるころには、自分の成長の仕方を、自分で選ぶ権利を当たり前に、どの子も持っている環境があればいいなと考えています。
僕たちの学校
今は来年の4月に開校すべく、会いたいと思う人に会いに行き、やってみたいことに挑戦するという日々を送っています。主夫もがんばってます(笑)。
僕たち(谷平亘・梶原健史)が作る学校の名前は「Yabucogi」藪漕ぎです。
僕の狩りの師匠宮井一郎さんに教えてもらった言葉です。
藪漕ぎとは、山道を逸れて自ら未開拓の藪の中に入っていくこと。
「人が歩いて作った道ばっかり歩いててもしょうがないやろう。たまには自分で道を作らなあかん。道を作ろうと思ったら藪漕ぎせなあかん。そしたらそれがまた誰かの道になるかもしれんやろ」
なんて感じのことを一郎さんはおっしゃってた。
「かっこよ!!」
話を聞いてその場で学校の名前にしようと思いました。
プルコギみたいでかわいいし(笑)。
学校は京都の乙訓・大阪の島本町を中心に展開する予定です。
山・川・人・街がいい感じに近い環境です。
ここから楽しい教育やコミュニティを生み出すべく、がんばっていきます。
どんな内容になるのかは少しずつ紹介できたら、と思います。
note時々更新します。よろしくお願いします!