③お別れと5件目の家。
今日の体調:お腹がまだユルいかな。その程度。やっぱしすこぶる健康のようだ。
双六の上がりは程遠そう。
さて。
次に引越しが決まったのは、マンションと名のつく4階建のアパートだった。
しかし。
そう。
ウチにはコロが居る。
どうするのか母に聞くと「棄てる」といとも簡単に言う。
その感覚が許せなかった。
でも、当時中学生の自分に何ができる?
その場で怒り狂うことすらできなかった。
こんな家に拾われて、大人たちからはここ数年ろくにご飯ももらえず、ろくに散歩にも連れて行って貰えず、鎖に繋がれたまんまで痩せ細っていたコロ。
それでも私が近づくとキラキラした目をしてしっぽをブンブン振って、本当にお利口な子だった。
拾ってきたの誰?飼うって決めたの誰??
もうそのどちらも家にいない。
なんて無責任なのだろう。
コロの目を見ていたら、かわいそうで申し訳なくて自分が不甲斐なくて、でも健気に尻尾を振ってすりすりぺろぺろしてくれる姿にボロボロ涙が止まらなかった。
別れがつらすぎて、最後の夜はどう過ごしたのか覚えていない。
そして迎えたお別れの日。
母はケロっと棄てるとは言ったものの、世間体を気にするらしく、深夜にコロを車に乗せて、少し離れたところにある、大型船が入港できるような港に向かった。
そこなら大丈夫だろうって。
誰にとって大丈夫なの?
きっと「帰ってこれないだろう」という意味での人間の都合で言う大丈夫ってこと。
コロなら生きていけるだけの良い環境がある
だとか
保健所に捕まらないだろう
とか
優しい人に拾ってもらえるよね
とかって発想では、絶対無いであろうことはわかった。
なすすべがなく、けれど車を見送ることもできず、同行することにした。道中ずっと泣きながらコロを抱きしめていた。
まだ子犬だった頃に、一緒に車に乗って走り回れる山間部の牧場屋公園に何度か遊びに行っ他ことがあったっけ。
それを思い出したのか、最初は尻尾を振っていたけれど、、、、
ただならない私の顔を見て何かを察知したのか、おとなしく膝に乗って私の胸の中でじっとしてくれていた。
そして、深夜の港に到着。
船もなく、静かだった。
一緒に車を降りる。
少しの躊躇の後、周囲をだーーーー!!と走り始めた。
そしてそれをそっとみながら車に乗り込む。
ドアを閉めた音で気づいたのか、こちらに向かって帰ってくる。
母が車を急発進させた。
行けども行けども、追いかけてくる。
大声をあげて泣いた。
健気な瞳のまま、体力だってそんなに無いであろう痩せ細った身体で必死に追いかけてくる。
あの時のコロの表情や姿は、何十年も前の出来事なのにいまだに脳裏に焼き付いて離れない。
母はこのまま市街地まで出てしまっては流石に危ないと判断したのか、広いその港の構内をグルグルと周回するように車を走らせた。
そしてとうとう、コロの姿が遠く見えなくなった。
私はどれだけ泣いたかわからないくらい泣いていた。
そこからどうやって家に帰り着いて眠りについたのかは全く覚えていない。
そして引越し。
コロのいない生活は本当に寂しく、気がついたら窓の外をぼーっと眺めては涙を流す日が続いた。
初めて自分の一人部屋を与えられたのもこの5件目からだった。
余談だけれど、私には「学習机」というものが与えられていなかった。
兄には小学校入学時に立派なクロガネ学習デスクと15冊セットの図鑑と地球儀と顕微鏡が与えられていたのに。
私には一切そういった類のものがなく、唯一母の事務所に余っていたネズミ色の味気ない事務机のみ、3件目の家に引っ越した時にどさくさに紛れてポンとオマエのだよと与えられただけだった。本棚すら持っていなかった。今考えてもなかなかなアンバランスさで酷いと思う。
今までのとっ散らかった環境が嫌だったことを思い出し、持ち主不在となっていたクロガネ学習デスクの本棚部分を自分で取り外し、自力でカスタマイズした。
憧れていた「整った環境」を一旦手に入れると、そこからは整理整頓をしないと気が済まなくなっていた。
コロを思い出しては、悲しくて辛くて虚しい気持ちになって、その都度気分転換にと一人で部屋のレイアウトを変えてみる。
何度目かの模様替えを経たところくらいから、「どうやってももうコロには再会できないだろう」という諦めと共に、この罪悪感を一生背負っていかなければならない覚悟のような気持ちが芽生えた。そして父と母と兄はそんな罪悪感なんて生涯1ミリも感じることはないのだろうなとも思った。
そして、もう家族への感情は好きも嫌いも何も感じなくなっていた。
その辺りから、やっとコロの夢を見なくなっていたように記憶している。
引越しを機に、例のベッドが処分された。
心底安堵した。
中学生活は、それなりに楽しかった。
家に帰る恐怖もないし部活にも没頭できた。
でも、期待されているキャラを取り繕っていたように思う。
この家庭環境ならグレてもおかしくないのにグレることに魅力を感じなくて、けどそうしても良いかわからなくて、学校では明るく活発な子を演じていたような気がする。
唯一の娯楽は音楽だった。たまに父の店に洗い物のアルバイトに行かされたのだけれど、バイト料がわりに父から「ガラモノ屋」的なところで中古のCDラジカセを買ってもらい、レンタルCD屋に行ってはブルーハーツのアルバムを借りてカセットにダビングして繰り返し聞いていた。
楽器はできないけれど心はパンクロッカーだった(笑)
そんななので勉強はイマイチ没頭できない。
小学校6年生の終わりから個人塾に通っていたのだけれど、膨大な宿題の量に辟易として、2年ほどでいかなくなってしまっていた。いいかげんちゃんとやらなきゃ。と気づいた時には、もう公立トップ校には到底届かないレベルにまで自分の成績は下がってしまっていた。
成績の良い子が通っている塾に通ってみるも、なんだか集中しきれない。サボり癖がついてしまって休むようになっていた。
家庭教師をつけてほしいと母にお願いしてみたが「にいちゃんの時でダメだったから」という理由で断られた。「おにいちゃんと私は性格も違うし別の人間だよ!」と何度言ってもガンとして受け入れてくれなかった。
ここでもまだ兄は私の邪魔をしてくるのか、と落胆した。
そうこうしているうちに中3になって、志望校を絞っていかないといけない時期になった。
担任が私の家庭の経済状況を心配して、頼んでもいないのに公立商業高校の推薦入学試験の名簿に私を入れていた。
普通科が良かったので、受かる気がない。準備も全くしないまま、推薦入試を受験。
面接では適当にその場しのぎな薄っぺらい事しか答えられなかった。
当然不合格。
でも、推薦入試を受けていたら一般入試は普通にしていたらほぼ100%受かると進路指導から言われた。「公立トップや二番手校を志望して、落ちてもあなたの家庭では私立には行けないでしょ?だったらここにしておきなさい。」そう諭された。
「一応直前までは悪あがきしてみたいです」と答え、毎晩深夜まで勉強に取り組んではみたが、模試であまり良い判定が出なかった。
冬場の私の部屋の環境は酷かった。
暖房器具が一切ないのだ。
母は相変わらず深夜に帰ってお風呂に入って寝るだけなので、そこまで自宅が寒いとは思っていなかったのかもしれないし、母の部屋にはテレビもヒーターもこたつもあったので、まさか隣の部屋が凍える寒さだとは思いもしなかったのかもしれない。
勉強机に向かっていても、寒くて、寒すぎて脛から足首にかけてが痛くなり、足全体の感覚がなくなる。
現在も酷い冷え性で、なんなら真夏でもエアコン環境にいると脛から足首にかけてが痛くなる。この時からずっと。冷やしすぎた後遺症のようなものなんだろうか?
そんな環境をポロっと友人に話したところドン引きされたのを鮮明に覚えている。もう自宅の話はするまい、と思った。
そして春。
結局最初の商業高校に行くことになった。レベル的には本当に「ごく標準」な高校。ただし、「成績は公立トップクラスだが就職希望なので」な優秀な子も大勢混じっているような学校だった。
後になって「最初に通っていた塾できちんと宿題をしていたら普通に公立トップだったんだな」と思った。同じその塾に通っていた子たちは皆公立トップに余裕で合格していたのだから。そりゃあんな膨大な宿題を継続的にやっていたら成績も上位キープできるわけだよね。
そんなことはサボり倒した自業自得だし後の祭りだった。
そんな最中、また兄が家に転がり込んできた。音楽は続けているものの、当然食ってはいけず、中卒で職もなく、やっと見つけた仕事も喧嘩ばかりで長続きせず、住むところがなくなったらしい。
母の部屋に万年床を作り、私のCDラジカセを強奪して、居座った。
でも、もう私自身に直接危害を加えることはなくなっていた。
というか触らぬナントカに、、、だ。
家に兄がいるであろう時間は極力帰らないようにした。
兄が明け方帰ってきては寝ている母を殴る蹴るしていた。「お前のその考え方が子供だって言ってるんだ!!」って母に向かって怒鳴っていたのが印象的だった。
誰に言っているんだろう?誰かに兄が言われたんだろうな、と想像がついた。馬鹿馬鹿しい。どの口が?は本当に父そっくりだね。なら母も嬉しいことだろう。
兄も母も別にどうなってほしいなんて思わないので、勝手にすればいい。
黙って自分の分のお弁当を作って、支度をして学校に行った。
そうこうしているうちに、また引っ越すと母から告げられた。