コロナ時代の地域社会学とまちづくり #02 破壊された都市社会学の前提とコロナ時代の新ルール
はじめに
本稿は2020年5月31日時点での構想段階であり、各論点は原著を踏まえての厳密な検証を得たものではありません。今後、きちんと検証してゆきますが、まずは、私が現在考えている、コロナ時代の地域社会学とまちづくりを考える上での前提と新ルールの構想を述べたいと思います。
私は、東京都立大学大学院社会学研究科(社会学専攻)で修士課程、博士課程を過ごしました。今また名前が戻りましたが、「都立大学」と呼ばれていた、「大学」がよかった時代に、都市社会学の教育を受け、日本的シカゴ学派、第3世代都市社会学者から受けた考え方がベースです。実際に講義を受けた都立大学の学術的系譜のイメージとしては、倉沢進→森岡清志(玉野和志)→松本康 です。森岡ゼミに所属していましたが、森岡&玉野連合ゼミのような感じで、松本ゼミに遠征という感じでした。
ネットワーク論から考えるコロナ時代
ウイルス感染の議論なので、社会学者としては、ネットワーク論としてコロナ現象をとらえてゆきます。感染者何人といった報道は重要であると思いますが、コロナ時代の地域社会学・まちづくりを考える本稿において重要なのは、感染者数(結果)ではなくて、感染が広がるプロセス(原因・前提条件)です。感染経路、すなわち、コロナウイルスはどのような社会的ネットワークを介して広がりやすいのか、広がってきたのか、どういった社会的ネットワークだと広がりにくいのか=コロナ時代の社会関係の基盤(新しい生活様式)ということです。
余談ですが、、、、
元ドリフターズの志村さんが亡くなるというのは私にとっても驚きでしたが、コロナ時代の地域社会学とまちづくりを考える上で重要なのは、日本国民に愛されていた有名なコメディアンが亡くなったという社会的インパクト研究ではなく、彼がどこで感染したのか、彼がどのような社会的ネットワークを形成していたかです。
但し、個人情報、監視社会との問題etcがあるので、コロナ報道において、感染者の社会的ネットワークに注目して報道することは難しいとは思います。
が、「クラスター」とはまさにネットワーク論の基本的な概念であり、具体的な社会的ネットワークとして現状を表現しずらい点が、本来は見えるはずの問題を見えなくして、「不安」を拡大するのだと感じています。
ネットワーク的視点で考える:4つのシミュレーションモデル
「コロナ時代の地域社会学とまちづくり」を書こうと思ったのは、以下のワシントンポストのネット記事を読んだことに始まります。実証研究ではなくて、モデルを用いたシミュレーションですが、コロナ時代の前提を考える上で、このシミュレーション結果をもとに考えています。
コロナウイルスなどのアウトブレイクは、なぜ急速に拡大し、どのように「曲線を平らにする」ことができるのか by Harry Stevens March 17, 2020
https://www.washingtonpost.com/graphics/2020/health/corona-simulation-japanese/
本記事は、仮想のシミュライタスという病気が一定の人口ではどのように拡大するのかを、「全員が自由に移動」「隔離を計画」「適度な社会距離戦略」、そして「広範囲での社会距離戦略」の4つのモデルを使って、シミュレーションしています(各々のネーミングがちょっと違うなとも思う所もありますが、原典との対応のためにそもまま用います)。以下、4つのモデルのシミュレーションの部分を示し、コロナ時代の前提となる社会状況を考えてゆきます(シミュレーション部分だけ引用できるのか分からなかったので、モデルのシミュレーション過程の最初、真ん中、最後の部分をスクリーンショットして貼り付けました。シミュレーションなので、皆さんが上記の記事を見るごとに、無作為に実行されるので、細かい数値はその都度、異なりますが、4つのモデルの特徴は変わりません)
図の見方とシミュレーションの前提
人が点で表されています。健康な人がグレー、感染者がオレンジ、回復した人が紫で色分けされます。感染者(オレンジ色)は1名からスタートして、人と人が接触すると感染(グレーからオレンジ色になる)するとします。感染後、一定時間たつと回復(オレンジ色から紫色になる)するように作られています。一度、感染すると二度は感染しない設定です。
モデル01:「全員が自由に移動」
「全員が自由に移動」モデルの感染者推移を現したのが、上の図です。全員が自由に移動した場合、つまり何も対処策を講じなかった場合のシミュレーションです。自由に動き回り、感染してゆきます。感染スピードは速く、感染者数のピークも高いです。本モデルは、感染した場合、一定時間を経過すると回復する前提(死亡者は出ない。病院に行く必要も薬も必要ない)を取っています。全員が感染(皆が免疫ができる)することで、感染者はそれ以上増えず、一定期間で感染者は回復するので、感染者は徐々に減っていって、誰も感染する人はいなくなり、終息というモデルです。
二度と感染は起きないが、確実に医療崩壊を招く
最終的に、誰も感染する可能性がなくなるので、一見よさそうに見えます。が、本モデルが前提としている、感染したら、誰も重症化して亡くなることなく、自然治癒で全員が回復する、ということは現実社会とは大きく異なっています。当然、このように急激な感染者が増えた場合は、病院に多くの感染者が殺到することになり、医療機関は対処能力を超えた対応に追われ、そのため、コロナ以外の日常的な医療体制も維持できなくなり、「医療崩壊」となります。このハードランディングを採用し政権を維持できる政治体制は、かなり特殊なので、採用は難しいと思われます。
モデル02:「隔離を計画」
自由な行動は制限せず、感染者が1名出た区域を隔離(棒で感染者のいる左の区域を隔離)するのが「隔離を計画」モデルです。隔離が終息までできればよいのですが、自由な行動は制限していないので、隔離を長時間維持することは難しいと想定し、隔離から一定時間経過後、隔離していたゲートが少しづつ開き、人は行き来を始める(縦の棒が開き、左右での交流が始まる)モデルです。
多少は時間稼ぎはできるが、医療崩壊は起きそう
「全員が自由に移動」モデルに比べると、初期感染のスピードは同じですが、隔離した分、ピークの高さは低くなっています。但し、その後、隔離が継続できないために、新たな他感染拡大が始まり、新たなピークを迎え、全員が感染し、終息を迎えます。「全員が自由に移動」モデルと比べると、感染ピークの人数を下げて、ピークへの達成時間も引き延ばせますが、それでも感染者数の絶対数は多く、現状の医療体制の対応可能な能力内に感染者数が収まるかは疑問が持たれます。
モデル03:「適度な社会的距離戦略」Stay Home戦略
人口の4分の3は公衆専門家の言う「社会的距離戦略」を受け入れたが、残りの4分の1が継続的に移動を続けるモデル。オリジナルのシミュレーションを見て欲しいが、人を表す点の4分の3は動かず、4分の1のみが動く。いわゆる、我々も経験している、Stay Home戦略です。
全員が感染せずに感染を終息させる
このStay Home戦略がこれまでの「全員が自由に移動」「隔離を計画」モデルと異なるのは、全員が感染を経験することなく、感染ピークを迎え、終息させられる点です。Stay Home戦略により、自由に移動する人が減るので、当然、感染スピードが遅く、感染ピークも低くなります。
モデル04:「広範囲での社会的距離戦略」Stay Home戦略
「社会的距離戦略」をさらに進めて、人口の8分の1のみが継続的に移動(8分の7が社会的距離戦略を受け入れる)するとするモデル。Stay Home戦略の更なるパワーアップ版です。当たり前ですが、「適度な社会的距離戦略」モデルよりも、さらに感染スピードが遅く、感染者のピークも低く抑えられ、全員が感染しなくても、終息を迎えることができます。
4つのモデルの感染者(オレンジ)、回復した人(紫)、健康な人(グレー)の推移の比較
上記記事の著者のHerry Stevensは、「通常、適度な社会距離戦略は、隔離を計画したときよりも効果があり、そして広範囲での社会距離戦略はほぼ、最も効果が高いという結果となる。」とまとめています。
コロナ時代の社会関係の前提とは
実際の社会の構造は、上記モデルのように単純ではなく複雑ですが、本モデルから見える、シンプルに感染するという視点のみから考えることで、コロナ時代の社会関係の前提を考えてみようと思います。
以前の「自由」に移動する生活を取り戻せるのか、、、
日本の場合、Stay Home戦略(緊急事態宣言による「広範囲での社会的距離戦略」の採用)で感染者を抑制し、何もしなかった場合の「全員が自由に移動」モデルより想定される、短期間での急激な感染者拡大とそれによる現状の医療システム能力を超えた感染者による医療崩壊を防いでいると言えると思われます。2020年5月31日段階では、緊急事態宣言は解除されていて、感染者数も抑制傾向にあり、休業要請などの制限は徐々に解除され、コロナ以前の自由に移動する生活に戻ってゆくように感じられます。クラスターが発見されている、接待を伴う飲食店やライブハウスなどの営業は自粛要請が続いていますが、他の営業再開はどんどん始まっています。コロナ以前の自由な移動を我々は取り戻せるのでしょうか。
ここで、問題になるのは、Stay Home戦略(公衆衛生学者が言う所の社会的距離戦略)による、現在の感染者の抑制による終息は、「自由な移動モデル(全員が自由に移動)」のように、全員が感染して回復したことにより、これ以上、感染する人がいなくなった状況による終息ではない点です。Stay Home戦略をとっているから感染拡大が収まっているだけであり、やめてしまったら、上記の「自由な移動」モデルになり、感染拡大の方向に進むということです。すなわち、ワクチンや薬が開発されない限り、必ず、第2波、第3波が来るということです(すでに、北海道や北九州では第3波、第2波ともいわれていますが)。
ヤマアラシのジレンマ ダブルバインド リスク
つまり、接待を伴う飲食店やライブやイベントなど、人の近接性を基にする親密感や集合することによる一体感や熱狂などからくる活きる喜び、人生の楽しみを求めることは、大いなる「リスク」を伴う社会になってしまったということです。これまでも社会学では「個人化」を議論してはいましたが、それでも社会関係の基本は「近接性」を基本に考えて、近接性をもとに結び付く親密さや社会的関係を基本に我々は社会を考えてきたと思います。コミュニティの基本は近接性ですし、そこから生み出す親密性や独自の社会関係をもって、大都市東京やグローバル化に対抗しようと考えてきたはずです。そういった、我々の社会関係の基礎となる結びつき方が喜びではなくて、「リスク」として考えなくてはいけないくなる。。。。。。昔習った、ヤマアラシのジレンマのような、ダブルバインド的な関係、、、、、。
親密な中にも物理的距離をとならなくてはいけない、公衆衛生学者の言う社会的距離戦略ににもとづきた「新しい生活様式」で我々は生きてゆかなくてはいけなくなりました。
ファクトフルネス(FACT FULNESS)
医師のハンス・ロスリングは『ファクトフルネス』の中で、すでに、エボラ出血熱、サーズなどを事例に感染症の危険性を指摘しています。多分、著者は、エボラ出血熱の初期、現状のコロナのようになるのではないかと思い、必死に対応したのだと思われます。
本書はエビデンスベースで議論する大切さを伝え、主に公衆衛生学的な視点から書かれていますが、その視点は極めて社会学的な視点を含んでいます。それは、公衆衛生的問題を、人類普遍的な「医学的な」「自然科学的な」因果関係モデルの議論だけで解決を図るのではなく、各人(各国)が置かれている状況の経済的格差をレベル1、レベル2、レベル3、レベル4と区別し(以下のDoller Street参照)、社会学的に言えば階級差、階層差により、感染症などの被害には差があることを示している点です。端的に言うと、貧しい人、社会的弱者の致死率が高いこととなります。また、教育レベルと経済的豊かさは相関があり、教育程度が低いために公衆衛生的理解が低く、慣習に縛られて、適切な対応ができず感染が広がる、、、、、、。
対処策をとっても不安は消えない
現状のコロナウィルスによる感染もそのような要因はあるのだと思われますが、現状の報道はそのような階級差、階層差への言及よりは、世界全体、日本全体、我々誰もが平等にふりかかる危機として報道され、我々もそのように理解し、受け入れているように思えます。それゆえ、どのような感染プロセスがあるのかといったことを考えることなく、言われるがままにともかく「社会的距離戦略」をとるものの、世界はどのような方向に向かっているのかは分からず、、、、ともかく感染したくない一心で。「見えない」敵と戦っているので、誰もが不安を感じながら日常生活を送っているのではないでしょうか。
ベック 『危険社会』的に考える
環境問題を、階級を越えた「リスク」として共有することで、新しい連帯が生まれる可能性を考えるように、、、、、ともかく、皆が、「社会的距離」をとる「新しい生活様式(先のStay Homeモデル)」を行うことで、この新しい「リスクに」対処する方向に舵をとったことによる社会的連帯は生まれたか、、、、、、そこでは、社会的連帯よりは、逆に「個人化」でもないが、「分断」する社会になってはいないだろうか?
科学的な根拠に基づいた社会的距離戦略ではあるのに、そこには、「再魔術化」が起きてはいないか、、、、、
森岡の「都市的生活様式」からコロナ時代の「新しい生活様式」へ
今のどれくらいの学生が習うかは不明ですが、師匠の森岡清志の都市的生活様式論という議論がありました。
端的に言うと、この図が使えなくなる、陳腐化するのが、コロナ時代の地域社会学だなと。都市的生活様式論は終わってしまった。
上記の図は、私流に解説するならば、(「農村」とは違う)「都市」というものが原因として、我々の生活様式を規定していて、それを「都市的生活様式」と呼びます(コミュニティの相互扶助などを基盤とする農村的生活様式ではなく、都市的生活様式とは、専門機関の集積たる都市では生活してゆく上での共同問題を相互扶助ではなく、お店などの専門機関のサービスを貨幣を介して解決する生活様式)。それで、「都市的生活様式」を送る我々は、(農村とは異なる)人間関係を形成してゆき、そういった生活様式を送る我々に適合的な社会構造が生まれてきて、そうすると今度はその社会構造に規定されて我々の都市的生活様式が再帰的に規定されてしまう(都市に憧れて上京し、都市的な生活をしていたら、もはや地元でしていたような生活には戻れなくなってしまい、いつの間にか都市からは離れて暮らせなくなってしまい、当初は自ら好んでしていた生活様式だったのに、いつの間にかそういった生活様式しか取れなくなってしまうようなイメージ)。
都市的生活様式論は、シカゴ学派的な説明の日本流解釈ともいえますが、地方のまちづくりについて話す際、その前提である、大都市と地方での生活様式の差を説明する理論として説得力があり、学生たちも結構納得していましたし、講演会で話す際も、結構評判よかったです。
都市化の否定 コンパクトシティ化の否定
しかし、コロナ時代には、この「都市(化)」の持っていた位置が「コロナ」になります。しかも、コロナは、都市(化)の定義を変えてしまう可能性を持っています。古典的な都市社会学の都市の定義は、「人口量が大きい」「人口密度が高い」「異質性が高い」の3つでした。前者二つはコロナ対策の日本的対応である「三密」にとって非常に良くない状況であり、コロナ時代の社会的距離戦略をにおいては拒否すべき状況です。それでは、最後の異質性は大丈夫か? 古典的なシカゴ学派の定義では、移民などの人種的多様性を指していており、フィッシャー流に解釈して文化的多様性といった感じで受け取るにしても、、、、、コロナ時代においては、感染経路が分からない、誰が感染しているのかが分からない、でも日々感染者がどこから出ているようだという社会認識では、「異質性」という、誰だかわからない、どこから来たのかわからないという要素は、コロナ感染者であるのではないかという不信を招き、望まないものとなる。都市の匿名性などはもってのほかです。
ということで、私の学問の基礎をなしていた、都市化の三要素はコロナ時代においては最も駄目な要素になり、これが加速することはダメ。古典的な意味での「都市化」は進まず、コロナ時代の「都市化」の定義が必要となる。
新たなアーバンマンが生まれるか?
これはまちづくりにおけるコンパクトシティの否定にもつながってゆく、、、、、その一方で、地方のまちづくりの最大の敵であった、東京の一極集中が予期せぬ形で歯止めがかかるのかもしれないが、、、、、、、
昔、大都市の環境汚染に防御するために防護マスクやいろいろな装備をしながら生活するアーバンマンという戯画が都市社会学のテキストにあったように記憶しているが、透明なコロナシールドをつけるニューアーバンマンが都市のスタイルになって、東京一極集中は変わらないかもしれないが、、、、、、でも、社会関係は今までと同じになならない。
「都市化」を抑制するコロナ時代の社会構造が生み出される
で、上図の「社会構造」という部分は、コロナによる三密を避けた新しい生活様式、ソーシャルディスタンスな生活(社会学者にとってはこれは社会的距離ではなくて物理的距離であるが、それは別稿で書きます)に適合的な社会構造にとって代わってゆく。そうすると、これは一時的なものではなく、仮にワクチンが開発され、薬が開発されて、コロナ危機がなくなったとしても、そこで産み出され、我々が身に着けてしまった「コロナ時代の新しい生活様式」が当たり前になり、もとには戻らない。というか、我々は以前の生活を忘れてしまうだろう。
接待を伴うオンライン飲み会が当たり前の世界?
今、感染拡大の原因とされている、接待を伴う飲食店やライブなどは、全員が好むとは限らないが、コロナ時代以前の我々にとっての生きる喜びの一つを形成していたことは事実であり、それが、よくないこと、危険なこと、不安の要素となってしまった。ただ、我々はたくましく、今、巷で始まりつつある、オンラインでの飲み会やライブなどが当たり前となってゆき、そのうち、接待を伴うオンライン飲み会や、オンラインライブが当たり前になってしまうのではないだろうか。来年には、実際に人間同士の近接や接触を伴う、接待を伴う飲食やライブなどは、違法(合法?)ドラッグのような位置づけになってゆくのではないか、、、、、。
都市化の議論の真の終焉
「都市社会」の前提は、都市化することで社会が変わってゆくき、そのことが新たな魅力を産み出し人をひきつけ、更に拡大してゆくと考えていました。また、地方のまちづくりにおいても、地方衰退の要因として、このような人口量大、人口密度が高く、異質性によって生み出される、非通念的な価値を持つ都市にしかない楽しい新しい色々な事(サブカルチャー)が生み出せないことが、衰退の理由と考えるならば、地域おこし協力隊などの活動は、部分的ではあるが、小さいながらも異質性と集積の効果によりイノベーションを生み出す行為と解釈することもできます。
地方に「都市性」が産み出ようとしても、地方のしがらみや保守性がそれを規制するために新しいものが生み出されず、楽しみがなくなり、人が大都市に移ってゆくと考えたりしていましたが、、、、、、
我々の前提としていた「都市化」という議論はもはや使えず、全ての議論が陳腐化していく、、、、、どこでも規制。都市の自由はなくなった?
レジェンドを越えて 原点回帰
都市社会学のレジェンド倉沢進先生が今年亡くなり、森岡、松本も現役引退の年を迎え、コロナによって、私が学んできた都市社会学の理論的基盤も本年度終焉を迎えてしまいました。
ただ、そもそも、シカゴ学派自身も、拡大する大都市シカゴという要因が社会にどのような影響を与えるかで生み出された「都市社会学」で、それが輸入されて、いろいろあって、都立大学の都市社会学の系譜が生まれたともいえます。
常に、新しいインパクトが社会にどのような影響を与えているのかを考えるのが社会学であるともいえます。ですので、シカゴ学派や都立大学の都市社会学が、当時最大の問題であった都市化に注目し、既存の農村社会学とは異なった学派を作っていったように、コロナ時代の地域社会学とまちづくりを構想し、生み出してゆくことが、この時代に生まれ生きてゆく自分のすべき研究者としての使命だと思って、コロナ時代の地域社会学とまちづくりを作ってゆこうと思った次第です。