小津安二郎が日の丸だった 1999.08.04 矢部明洋
私の祖父は自民党員で、選挙にも出たことがある人(2回続けて落選という、いわゆる政治道楽者)なので、祝日になると町内でも率先して日の丸を軒先に掲げていた。しかしながら、爺不幸なことに、昭和38年生まれの私に「日の丸」「君が代」への愛着は無い。
国旗・国歌の法制化論議で教育現場での扱いが一つの論点になったが、京都で育った私は学校時代のセレモニーで両者を見たことがない。また、国を背負って国際大会に臨むスポーツエリートでもなかったのだから、「日の丸」「君が代」にしみじみと感慨を抱くことがないのも当然といえば当然。だが、それは不幸なことだろうか。
私が学生の頃は日米経済摩擦がピークで、海外からの視点に立った「日本は変な国」「生活や文化の貧弱な国」といった論調が新聞を中心に流行していた。今で言えば、自虐というやつか。自虐が生じ得る自信のなさが戦後日本の特徴かもしれない。そこが、また戦前、戦中を知る年長者たちの悔しい、歯がゆい所なのだろう。
求心力の働く、へその部分がない国。「日本人の日本人論好き」はそれを端的に示す現象だとよく指摘もされる。戦後ずっと日本人はへそを探し続けてきたのかもしれない。
そんな状態を解消し、「皆に分かりやすい“へそ”を持とうよ」というのが好意的に見た「日の丸・君が代」法案なのだと思う。しかし、突然これが「きょうから私たちの“へそ”だから」と決められても我々の世代は、どうしても戸惑いが先行してしまう。なぜなら、この歳まで国旗・国歌なしでやってきて、「日の丸」「君が代」とは別の、日本人としての“へそ”と思い定めるものを探し見つけてきたからである。
私にとって、それは20歳前後のころ見た小津安二郎の映画と、同じ頃、山登りを通じて接した日本の野山だった。ここは映画の話を書くところなので、小津映画についてのみ記そう。
リアルタイムで見られなかった映画ファンが、後年になって小津作品を見始めるのは、映画に対して生意気になりだす、高校から大学にかけてが多かろう。ハリウッドの映画作法に飽き出し、もっといいものがあるはずだ、と名画座に通い出す頃である。
そこで青年たちは、饒舌の限りを尽くすようなアメリカ形式の正反対も正反対、その極北に位置するような小津スタイルに接して、まず驚く。徹底して意味、概念をなす言葉を拝しての作劇は、省略を重ねて逆に豊かなイメージを構築し得た俳句の作法に通じ、強烈に日本文化を意識させられる。在るものは全て写してしまう多弁な映像の世界で、侘びや寂びを表現した独創性に魅了されるだろう。まして、これが世界で受けているというのだから、ここに世界に誇り得る日本があると信奉してしまうわけだ。 小津映画が今に至るも高い評価を受け続けるのには、多くの映画ファンがそこに日本人としての“へそ”を見出しているせいもある。だから、小津に対してはもう権威といっていいほど批判が見当たらず、神格化の趣きさえある。笠智衆が、あれほど晩年敬意を持って遇せられたのは、小津伝説の(おそらく原節子を除けば)最後の生き証人だったからだ。そして、原節子の死は、小津世界に日本を見出してきた人々にとって、美空ひばりや石原裕次郎の死以上に時代を画すトピックスとなるのは間違いない。黒沢明の死後、新聞が一面に破格の扱いで死を報じる映画人は、おそらく原節子が最後になるはずだ。
もしも、戦後処理がきちんと完遂され、日本に国民合意の国旗・国家が存在すれば、今ほどの小津好みがありえたかどうか少々疑問でもある。また小津以外にも日の丸的な役割を背負った偶像が、戦後日本には存在するはずだ。日本人はそうしてやってきた。極端な話、世界で唯一、国旗・国歌を持たない国であってもいいんじゃないか。ジョン・レノンも、そう歌ってるじゃない。