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 カルシウムな英国 『マイ・ネーム・イズ・ジョー』99.10.18  矢部明洋

  有楽町(東京ね)のシネ・ラ・セットでレイトショーの『マイ・ネーム・イズ・ジョー』(ケン・ローチ監督)を見た。この劇場では「P・G」というピンク映画専門誌を発行している林田義行さんが働いているが、この夜はいなかった。
 さて本題に入ろう。ここ数年、英国映画と相性がいい。私の心の隙間にストンと落ちてくる。『キャリントン』『日陰のふたり』『秘密と嘘』『ブラス!』などがそう。『マイ・ネーム・イズ・ジョー』も、山口でハリウッド映画ばかり見てボケていた私の目を覚ましてくれる出来だった。  筋は、アウトロー世界から足を洗おうとする主人公が、恋人と仲間の板ばさみになる悲劇で、こう書いてしまえば、まんま東映の任侠映画だ。しかし似たような筋でも、作り手が違うと、こんなに違うのかと思うほどに、描かれる世界も人物も地に足のついたものになっている。
 筋を詳述はしないが、もう英国映画のパターンで、主人公やその仲間はは失業している。主人公と恋仲になるヒロインの職場は公立病院だが、福祉削減策で忙しそうだ。映画は、登場人物たちの日常を過不足なく、リアルに淡々と描いてゆきラストの悲劇に至る。そうして映画は唐突に終わるのである。
 観客に対して「自分たちの生活と照らし合わせて、考えてごらん」と突き放すような終わり方だ。
 ハリウッドでは滅多に見なくなった作法だ。最近の米国作品では『デッドマン・ウォーキング』以外に覚えがない。ハリウッド映画は饒舌の芸であり、必要以上に観客を楽しませよう、夢をみさせようとする。ちょっと押しつけがましく、カロリー過多の砂糖菓子みたいで大人は胸焼けすることがままある。
 対して『マイ・ネーム・イズ・ジョー』の作法は、人物描写にも、セリフにも、エピソードにも過剰なデコレーションを施さない。ただ、何の仕事で、何を食って、楽しみは何で、どんな音楽を聴いて、という生活の細部を押さえてゆくだけだ。しかし、その適格な人物の押さえ方が、まるで隣人の物語を見るような感情移入を誘うのである。
 観客の感情を波立たせ、その波頭をもってゆくのがハリウッド流なら、感情の海に投網を投げ、心の底に沈んでいたものをすくい上げてみせてくれるのが英国映画の作法のようだ。
 確かに映画は娯楽だが、甘いお菓子ばかりでは生きては行けない。ヨーロッパ映画の中でも英国物は少々骨っぽいが、カルシウムはたっぷりなので是非多くの人に見て欲しい。
追記~同じ日の昼間、早稲田松竹で『バベットの晩餐会』を見た。評判通り面白かった。しかし、クライマックスの作りは料理が水戸黄門の印籠役を果たしているだけじゃない。やはり、いかにもアカデミー賞外国映画賞をもらいそうな米国人好みの甘い話ではあるよね。

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