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矢部明洋のお蔵出し日記編 1999年9月

▼9月某日・カネやん登場

  9月になって早々、我が家にカネやんがやって来た。
 カネやんといっても、あの偉大だが品のない大投手ではなく、同僚記者の愛息である。その生後数ヶ月の乳児が、女傑といっていいママと一緒にやって来たのである。生まれてすぐ病院で会って以来だ。生まれ何日も経っていないくせに、カネやんは鼻筋が通ってきれいな赤ちゃんだった。病院のベッドに、豚児みえぞうを並べて写真を撮ったりしたが、みえぞうのデブリンかげんがやけに目立ったなー。
 カネやんはまだ、座ったり這ったりできないのだが、寝かせておくと、寝たままグルグル回ってガメラみたい。そこへ豚児みえぞうが攻撃を仕掛ける。その様はガメラ対ギャオス? バイラス? ギロン? と往年の大映のヒットシリーズを思い返すのだが、みえぞうはどう見ても東宝のミニラだし、カネやんは巨人の高橋に似ているしで、私の想像力は焦点を結ばぬまま、山口の夜は更けるのであった。
 その夜は女傑を相手に久しぶりに腰を据えて酒のみ、売買春は是か非か、などと硬派な意見を交換しつつ、互いに配偶者や、その一族をネタに盛り上がったのでありました(この文章もだいぶ酔っとるなー)。 


▼9月某日・酒の肴に黒澤明

  我が家の極悪タッグチーム「鬼妻&豚児みえぞう」が京都に帰った。
 お陰で、こっちは命の洗濯だ。
 たまたま、衛星放送でクロサワの映画を連続して放映するというので、休みでももあったから酒を飲みながら『生きる』と『羅生門』をどっちも途中から半分くらい見た。もう劇場で2、3回は見たことがあるので、一杯やりながら見ようかという気になるわけで、贅沢な酒の肴だよねー。
 でも『羅生門』は不朽の名作みたいな言われ方をしているけど、はっきり言って、これは変な映画だよ。カルトムービーと言っていいでしょう。若き日のクロサワの芸術的野心のみが突出した、一歩間違えば壊れていた作品。助監督やってた加藤泰が、「分からん」と言ってクロサワと喧嘩した気持ちが良く分かる。『生きる』だって、いや本当に凄い映画なんだが、志村喬の芝居は変だよ。これも、あの独創的な構成と、クロサワ映画を支え続けた達者な脇役陣なかりせば変な映画になってたはずだ。
 この放送シリーズでは最後の監督作品『まああだだよ』も放送される。世評はボロクソだが、私は『影武者』以降、評判の悪いクロサワ作品の中で、『八月の狂詩曲』と『まああだだよ』だけは大好きなんだと、今ここでカミングアウトしておこう。
 今やクロサワなら全てOKという風潮だが、この人はやっぱり突出してるだけあって、何度でも言うが、本質はウェルメイドとは程遠い変な作家なんです。その突出ぶりを補うチームに恵まれ数々の傑作をモノにしてきたわけです。
 でも『八月の狂詩曲』と『まああだだよ』は、偏屈なんだけど、本当にピュアな爺さんぶりが素のまま出ていて、チャーミングに仕上がっているんだ。大芸術家の枯れてゆく様をリアルタイムで見られたのは貴重な体験だと、私なんかは思ったんだが、世評は厳しかったな。
 福岡に居る頃、足繁く通った酒場で、よくクロサワの話をした。相手になってくれたのはO塚さんという、これまた常連客で、2人よく映画の話をした。錦之介、鶴田といった大物スターや巨匠、名キャメラマンといった人たちが亡くなった日は、自然と足がその店に向き、殺風景なサッシのガラス戸を開けると、いつもO塚さんがカウンターでコップ酒を飲んでいた。それから私たちはさんざん、死んだスターの昔の映画の話をしゃべりまくって、供養の真似事をしたのである。
 O塚さんは博多界隈の男にありがちな、山笠狂いのくせに妙にナイーブな人だった。山口に来て以来会っていない。連絡しあって時間を決め会うなんてことは、とても照れくさくてできない間柄だった。
 宮川一夫が亡くなった日、私は博多のその店に酒を飲みに行きたかった。行って、『羅生門』や『用心棒』のキャメラの話がしたいなー、などと思ったものだ。今、小さなテレビ画面で『羅生門』を見終えて、そんなことを考えている。 


▼9月某日・禁断の藤沢周平

  鬼妻&豚児がいないので、休日は温泉に行く(山口市内には湯田温泉があるんですよ)。
 露天風呂につかりながら、司馬遼太郎以上に悪口を言う人がいない藤沢周平を読んでいる。藤沢作品を読む歳になったのかー、と感慨深いものがある。
 30前後の頃、会社の上司が大ファンだったせいで、初めてその存在を知った。この上司は、何とか藤沢氏に毎日新聞の新聞小説を書いてもらおうと、自宅などをよく訪れていた。「朝日にも以前から頼まれていて、その次なら」と言われてもファンなので、折りあるごとにお宅にお邪魔していたそうだ。彼曰く、藤沢作品には品と、どんな悲劇でも一点の明るさというか救いがあるのがいいそうだ。そして、その秘密は藤沢夫人にある、と主張していた。失礼な話だが、藤沢夫人は、おもしろ顔をしておられて、呑気というかすっ呆けて明るい人らしい。それが作品に救いをもたらしている、というのが彼の持論であった。
 また、当時一緒に仕事をしていた別の直属の上司は「藤沢周平は老後にとっておく」と言いつつ、我慢できずにずるずると読んでいた。彼曰く、池波正太郎ははずれの作品も結構あるが、藤沢周平にははずれがない、とのことだった。私は彼に薦められて『蝉しぐれ』を読んだ。これは良かった。読みながら、「歳取って再度読んだら、また違う感じ方をするんだろうな」ということにまで思いが至ってしまう傑作であった。何しろ宝塚が歌劇にしてしまうほどの逸品なのである。何が言いたいか、よく分かってもらえないかもしれないが。
 『蝉しぐれ』が余りに良かったので、藤沢周平を30前後の歳で読むのはもったいないと思って避けていたのだが、それから6年が経ち、山口に来たこともあって、つい手をのばしてみた。温泉につかってページを繰りながら、「やっぱり待って良かった」と思える程、今は身につまされるのである。
 司馬遼太郎は10代で読もうが、いつ読もうが味わい変わりはないが、藤沢周平は歳を重ねるほどに味わいが深まる上等な酒のようなものである。
 


▼9月某日・第2子の名は「麦」

  9月になっても暑い日が続く。
 皆、寝苦しいのは分かるが、豚児みえぞうの寝相は悪すぎる。
 我が家は親子3人「川」の字になって眠っている。当然みえぞうは真ん中だ。こいつが、私が夜中目が覚める度に違う所で寝てる。それも、真ん中に居たはずの奴が、いつの間にか足元にいる。と思えば、その次目覚めると布団を飛び出し枕元の畳の上だ。しばらく観察していると、1回の寝返りが、こいつの場合180度回転ではなく、1回転したうえでの540度回転だった。まったく天井から静止カメラで一晩撮影して、どれだけ無駄に動き回っているか鑑賞して見たい。
 みえぞうが動き回るおかげで、私は布団の隅っこ追いやられ、腰痛対策もあって背を折り丸まって眠っている。鬼妻は、と見れば、不動の「大」の字である。いびきまでかいている。
 「大の字」女に540度小僧。
 布団の片隅で縮こまる私。
 こんな状態では、第2子に恵まれたとしても、生まれ来る子は母と兄の暴虐な振る舞いに虐げられるに違いない。
 踏まれても踏まれても、たくましく育つよう、男でも女でも、その子には「麦」と名付けよう。
 寝苦しい残暑の夜に、そう思い定める私だった。
 


▼9月某日・新幹線が止まった

  「ひかりが立ち往生しとる」
と北九州市にある本社のデスクが言ってきたのは午前2時ごろだった。
 泊まり勤務だった私はすでに車を小郡駅に向け走らせていた。
 支局への連絡が携帯電話に転送されてきたのだ。
 「もう向かってますけど」
 「明日、夕刊で展開するので、もっと連れてけ!」
とのお達しなので支局に戻り、一番下っ端のサツ番記者を電話でたたき起こした。酒を飲んで眠っていたと言うので、車に同乗させ再度駅に向かった。
 泊まり番だったので一睡もしていない。腰が持つかどうか不安だ。同行の後輩記者は青い顔をして酒の臭いがプンプン。こっちも不安だ。
 駅に到着すると、昼から駅員から「もう動く」「間もなく動く」と言われ続けてきた客の怒りがピークに達しており、駅員は現状説明に出てくる度に吊るし上げを食らっている。迎えに来て、昼から待ちぼうけ状態の男性はワインのボトルを片手に出来あがっており、大声で駅員をののしっている。
 どちらにも気の毒な修羅場ではあるが、とりあえず皆さんに話を聞いて原稿化し持参したパソコンで公衆電話を使い送稿した。
 結局、新幹線が動き、小郡駅に缶詰客を乗せた最初の列車が到着したのは午前7時半。駅から早々に立ち去ろうとする乗客に話を聞き、原稿を送る。づっと立ちっぱなしで腰は限界。ストレッチ運動をしたら、わき腹から胸にかけての筋肉がけいれんを起こすという初めての体験をした。
 一段落した午前10時ごろ、駅を離れた。
 夕刊のゲラをチェックし、うたた寝をしたのも束の間で、「今日の県版は台風の被害まとめるから」と支局長の無情なお達し。
 人使いの荒い職場だ。

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