待望のスター映画 『残侠』 1999.02.27 矢部明洋
京都の四条大宮に「大宮東映」という東映封切館がある。『仁義なき戦い』シリーズでよく出てくる、映画館前のチンピラ射殺シーンのロケ場所で、ヤクザ映画ファンには史跡に指定したいような場所である(かといって特別何かあるわけではない)。
そこで『残侠』を見た。ドラマの舞台は京都だし、監督の関本郁夫氏も京都市内の出身。おまけに実家は我が家のご近所。「ここで見ずして、どこで見る」てな意気込みで、自転車でぶらぶら見物に出かけたわけだ。
土曜日ということもあったが、年配の男女を中心に客席はまずまずの入り。ひと事ながら少しホッとした。土曜だろうと日曜だろうと、日本映画の封切館というのはアニメ以外はガラガラというのが、この十数年目の当たりにしてきた現実なのだから(それが証拠に、この日の予告編も3分の2程がアニメ映画のもの。東映三角マークよ! いーのか、これで!!)。私の席の後でも初老のご婦人2人連れが「映画館来たの何年ぶりやろー」と話しておられた。
さて『残侠』の出来は、良い意味での大衆演劇である。華のある役者による名場面集といった展開が特徴のスター映画で、スタッフにも技量が伴っているためダレることなく全編を見せてくれる。つまり映画の成否は主役である高嶋家の長男坊の出来不出来にかかっていた。関本監督が粘ったのか、手取り足取りしごいたのかは知らないが、彼が以前『極妻』シリーズに出た時より格段に良い出来で、立派に作品を支え得た。前出のオバサンたちは終映後、「中井貴一の死に方がつまらんかったネー」と感想を述べ合っておられたが、1800円、身銭を切った分のカタルシスは味わわれたのではと思う。
そもそも東映娯楽作は、登場人物のテンションが全編を通してトップギアに入ってるような筋の展開が特徴。チャンバラでもヤクザ物でもファーストシーンからいきなり白刃が踊り、拳銃がぶっ放される異様な世界である。巧いだけの役者では、とても主役は務まらない。スターとしての華がないと映画がもたない構造になっている。つまり緒方拳に松竹や東宝で主役はできても、東映では無理な相談なのである。逆に萬屋錦之介は、たとえテレビの脇役であっても、登場するだけで、その場面を東映ドラマ空間に変えてしまう人だった。名優とスターの違いは、その辺りにある。
日本映画がその黄金期にジャンルとしてパワーを持ちえたのは、大衆娯楽であったればこそである(今現在はゲーム業界にジャンルとしてパワーが見られる)。つまりスターが健在で、スターを活かす娯楽のツボを押さえた『残侠』のような作品が量産されていた時代のことだ。ところが今や日本映画は、セコい作家主義の呪縛にとらわれ、趣味人の閉じたお楽しみの場にスケールダウンしている。『残侠』がキネ旬のベスト10に入ることはないだろうが、映画産業にとってこの作品の登場は重要だ。
ヤクザ映画を代表とする東映娯楽作の低迷も結局はスター不在が大きな要因だった。中井貴一や奥田瑛二を主役で試したりしたが、映画一本背負えるだけの華がなかった。『残侠』の高嶋も予告編を見た時は、「オイオイ、こんなボンボンで持つのかい」と心配したのだが、予想はいい意味で裏切られた。スクリーンからうかがえた高嶋の華が、彼の資質なのか、関本演出の成せる技なのかは分からぬが、この映画、シリーズ化を期待したい。そして関本監督に会心の一本をモノにしてほしい。
追記 名場面集のような展開と記したが、この映画の意地悪な楽しみ方を紹介しよう。関本監督は、どの役者にも花を持たせようと全編、腐心しているが、各場面に当然出来不出来はある。それは、その場面の見せ場を担う役者の力量の差といっていい。私は、この映画、加藤雅也と天海祐希の役に、もっと出来る俳優を据えれば、仕上がりは格段に良くなった思う。