聖なるリング=『ボクサー』1998.07.24 矢部明洋
後楽園ホールでボクシングをご覧になったことがあるだろうか。
リングサイドに座れば、テレビでは見えてこないボクシングの悲惨な一面を目の当たりにするはずだ。殊に前座の試合は残酷だ。華麗なテクでパンチをかわすことなどあり得ないのに、打撃に耐えうるレスラーのような隆々たる筋骨の持ち主は出てこない。チャンピオンを望める才能に出会うことも、素人目ながら滅多にない。
それでも、興行の度に若者たちは続々とリングに上がり、顔を腫らし、血を流しながら 、時には昏倒するまで殴り会っている。セコンドも、戦ってる本人たちも分かってるはずだ。この程度の才能では、決して世界チャンプなど望むべくもないことを。その辺にいくらでもいそうな青年たちの、この展望なき、不細工な戦いは、悲惨以外の何物でもない。
「それでも、やるか?」
と、思うのだが、おそらく、その辺にいくらでもいそうな青年たちにとって、リングで戦うのは特別な事、唯一「生きている」と実感できる時間、ハレの時なのだろう。
そう、リングはハレの場、非日常の世界だ。特に、情報があふれ返って、何が正しい事か分からないほど錯綜してしまった今の世の中で、リングほど明快な場所はない。ある日本人ボクサーはかつて、「1ミリの嘘も存在しない世界」と、己の住処を誇らしげに表現していた。習練を積んだ者が勝ち、及ばぬ者が敗れるという点で、そこでは一切のまやかし もごまかしも存在しないとの意なのだろう。宗教すら、いかがわしく見られてしまう現代 で、リングの神聖さは増すばかりなのかもしれない。
監督、ジム・シェリダン。主演、ダニエル・デイ・ルイス。この気心の知れた英国コンビの新作『ボクサー』が描くリングも同じだ。ただ、この映画に登場するリングを取り巻く環境は、飽食と平和に倦んだような日本とは正反対ではある。アイルランド紛争をテー マにした物語の中で、ボクシングのリングは唯一、宗教も人種も超越できる未来への希望の場として描かれる。そして、ドラマはボクシングを触媒に、IRAのコミュニティー内で起こる悲劇を綴ってゆく。
脱帽ものの巧みな設定だし、おそらく、ボクシングをこんな眼差しで描いた映画は初め てだろう。
ボクシング映画とは往々にしてサクセスストーリーとなりがちで、ボクサー個人の栄光と挫折の物語が多い。ところが、この作品はボクシングを単なる成功の手段や道具としてではなく、リングの周囲を丹念に描写し、コミュニティーとの関わりでボクシングを描こうと試みた。ジャンル全体をとらえようとする、その眼差しは、ボクシングへの敬意と愛情に満ちている。紛争や家族の悲劇を描いたドラマが秀逸なのはもちろん、ボクシング好きにはたまらない、シーンがいっぱいある。
冒頭の主人公の美しいシャドウボクシングは長く脳裏に残るだろう。