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見たことのないトイレ(在宅医療)

 在宅医療で困ることのひとつ、トイレ。

 往診先でトイレのない家はないのであるが、気の小さい私は簡単に拝借することができない。なんかかっこ悪いと思ってしまうし。
 往診件数が多い時などは、最後の方はいつも尿意と一緒に往診している。

 オシッコはまだいいが、おっきい方はまさに緊急事態。
 往診先での便意の恐怖から、私はいつしか往診前、すなわち昼食をとらなくなり、20年以上も1日2食の生活が続いている。

 ある日、往診中にお腹が痛くなった。
 そんな日に限って近くにコンビニやスーパーはなく、診療所からも遠く離れた場所にいた。
 往診先でトイレを借りるしかない状況である。

 いくら切羽詰まっていても、玄関を入るや否や「ト・・トイレ」などと言える訳もなく、冷静を保ちながらも必死になってばあちゃんの診察を済ませる。
 全神経が肛門付近に集中していたので、ばあちゃんが死んでても気がつかなかったかもしれない。

 玄関に向かおうとして、ちょっと気がついたようなふりを装って「あ、トイレお借りできますか?」

 便器を前にした時が実は一番危ない。
 間に合ったという安堵感が肛門括約筋を弛緩させてしまう。

 間一髪、大失態を免れた私は、思わず神様に感謝した。
 普段は信心なんてしてないのに。

 そしてこの不信心者に、すぐにとてつもなく大きなバチが当たることになる。   

 気分よくトイレを出ようとして振り返った私が目にしたのは、長いチューブの先についたピストルのようなもの。そして汚物を流すためのレバーが見当たらない。

 きっと、このピストルのようなもので何とかするのだろうということは予想できたが、肝心の使い方がわからない。いろいろ触ってみるが、何も起こらないのである。

 これは・・大ピンチ。

 私の身体から出てしまったものは、もはや元に戻すことなどできず(戻されても困るのであるが・・)いくらそのものに名前は書いていないとはいえ、持ち主が誰であったかは科捜研の手を借りなくてもすぐにわかる。とてもこのまま放置はできない。

 手洗いの水を手に受け、思い切り便器にたたきつけてみるが、そいつはびくともせずにそこに存在し続けている。

 どうする。家の方を呼んで流してもらうか・・

 途方にくれてしばらくの間、便器に座り込んでいた私は、棚の上に積まれた古い新聞紙の下に冊子があるのに気がついた。

 もしやと思って手にしてみると、案の定、それはトイレの取り扱い説明書。この手のものは大体こんな場所に保管するものなのだよ、コナン君。

 それを頼りに操作を続け、ピストルから勢いよく水が出て汚物が流れた時は、思わず拍手をしてしまったではないか。

 オシッコをした体ですぐにトイレから出て帰ろうと思っていた私のもくろみは雲散霧消。
 
 長い時間トイレに居座り、中でガサゴソと動き回り、あげくは拍手。
 そのお宅の方々は、私がトイレの中で何をしていたと思ったのであろう。

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