見出し画像

私、しゃべれるんだよ(在宅医療)

 病院より患者さんの紹介を受けた。まだ50歳にもなっていないのに消化器癌の末期の女性である。

 病院からの紹介を引き受ける時に気を遣うのは、町の小さな診療所には常備していないような器機や薬剤を使用していることが少なくないということである。
 手元にあるもので都合良く代替できればいいのであるが、なければあわてて取り寄せなければならない。
 しかも、注文してすぐに手に入るとは限らない。

 初めて往診した時、私はまず、見たこともない器機にぶったまげた。
 大静脈内に入れられたチューブから1時間に5mlという速度で鎮痛剤を持続的に注入している。
 今でこそさまざまな輸液ポンプを知っているが、当時はこのような器機は見たことがなかったのである。
 
 診療所に帰って病院の医師に連絡を取ったが手術中でコンタクトできず、インターネットで検索し、業者に連絡してレンタルするまでにこぎ着けた。

 いつまでも病院の備品を取り込む訳にはいかないからである。

 なんとかその輸液ポンプをレンタルし、専用の輸液ラインも購入し、「さあ、準備万端整った」と思った途端に患者さんの容態は急変し、あっという間に帰らぬ人となってしまった。

 手元に残った輸液ポンプと高価な専用の輸液ライン、山ほどの薬品・・輸液ポンプは返却するとして、他のものは引き取ってはくれないだろうなあ。

 引き上げてきた物品達と共に診療所に帰りついたのが午前2時。
 
 死亡診断書を作成した後、それらの整理をしていると、突然、後から女性の声が聞こえたような気がした。

 空耳? いや、間違いなく聞こえた!

 手にしていたものを落としそうになるほど驚き、あわてて後を振り向いたが当然のことながら誰もいない(いたらどうするんだ?)
 真夜中の診療所に誰もいる訳がないではないか! 

 何だ、何だ、何だ~!

 心臓がドクドクと脈打つのがわかる。
 どうする、逃げ出すか。でも、逃げるってどこに?

 固まったまま動けないでいる私の後から、再び聞こえた。
 間違いようのないはっきりとした女性の声が!

「輸液が接続されていません。輸液が接続されていません・・」
 
 その声は私の後に置かれた輸液ポンプからであった。

 この輸液ポンプは、輸液の接続ミスなどの事故を防ぐ目的で、輸液が流れていない場合に音声で注意を促す安全装置がついており、さらに、たとえコンセントを抜いていても、完全にシャットダウンしないかぎり、内臓バッテリーで作動を続けるようにもなっている。

 ポンプは「ねえ、点滴が流れてないけど、何か間違ってない?」と言い続けていた訳であり・・

 しゃべる輸液ポンプに死ぬほど驚かされた私は(少し漏らしたかも)、以後、真夜中に死亡診断書を作成することはしなくなった。

いいなと思ったら応援しよう!