腐ったパン
休みの度に、「もしかしたら好きなひとがふと、帰ってくるかもしれないから」と3人分くらいのご飯を作って、白米を沢山炊いて、ひとりで3日も4日も掛けて食べる。食べ終わりの頃には腐りかけている。離れるのが夏じゃなくて良かったと思う。
家の中でイヤホンを両耳は付けない。バイクの音が聞こえるかもしれない。音量もずっと最小限だから、隣の人の大きなくしゃみが聞こえる。上の階の人の生活リズムも把握し始めてきた。寝ている間に帰ってきていたら寂しいから、睡眠薬は飲まなくなった。寝られなくても、極限になると気を失うから、大丈夫だと知った。
いつまでこんなことをしているのだろう、とも、いつまでもこんなことをしていたい、とも思う。
帰ってくるかもしれないと信じられるうちはまだよくて、それが信じられなくなったとき。信じることすら許されなくなったとき、わたしは酷く落ち込むのだろうと思う。ひどく、ひどく、とてもひどく。
それはもしかしたら冬眠のようなものかもしれない。信じたい現実が無くなり、見たい夢ばかりを追って眠り続ける。こくこくと。こんなことは、言うまでもなく自らの足で死に歩み寄っていくことだ。足音を立てて、誰かにアピールするように。目を覚ます時はあの人のキスがいいと望みながら、助けてと唇を震わせる。
想像しなかったわけではない。基本理念は理想主義だけど、ある側面でのわたしは恐ろしい程に、冷たい。ずるく、滑稽である。
信じられなくなる前に、忘れてしまいたい。ご飯を作ることも、イヤホンを外している理由も、眠れなかったことも。
思い出したとき、ああ、あの人のことを好きだった。ただ、好きなだけだった。そういう風に忘れていきたい。ご飯を3合炊いたり、時々イヤホンを外したり、チェーンをそっと外したり、こんな、剥がさなくていいものを剥がすように苦しみたくない。
十分すぎるくらいに待って、いつかひっそりと忘れたい。花束みたいな恋じゃん、なんて、また誰かに言われても、そうだったね、と、笑えるように。
かさぶたを剥がさないように爪を伸ばさない。こういう努力しか、いまはできない。