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自由の欲

 欲しいと思うことは、欲求だ。お金が欲しいから働き、性欲を満たしたいからセックスをする、お腹がすいているから食べる。性欲と「欲しい」の違いは、一体何処にあるというのだろうか。子どもが欲しいからセックスをするだけでは無いだろう。お金が欲しいだけで働くわけじゃないだろう。お腹が空いているだけで食事をする訳じゃないだろう。私たちの欲はどこまで行っても曖昧で、その答えを持つ人は誰もいない。ならば、どんなものに欲を抱いても、どんなものに性欲を抱いても、それは不思議では無いのかもしれない。

 綾人も莉奈も、金と性欲を余していた。発散する場所がないのではなく、上手い使い道を探していた。莉奈は久々にひとりでラーメンを食べて、ぎゅるりぎゅるりと唸る腹を落ち着かせながら、立ち上がる。五十六歳にもらった指輪を引っ提げる。綾人は悪くない女を抱いた後だった。ベロベロに酔って女の前で立たなかった以外は、いい夜だった。
 「おねーさんひとり?あぶないよおー。」
 莉奈が店から出て数歩で、遠くから大きな声がした。声の方へ振り返ると、遠くからでもわかる軽薄な笑顔がそこに、くっきりと浮かんでいた。まるで照明がそこにだけ集まっているみたいだった。眩い流れ星がここに落ちて、誰からも見つけられていない。給料日前の五百円玉みたいだ。そんな風に錯覚した。あの高いダイヤより、うんと高貴で高いもの。あの大きなダイヤは、流行りだからと莉奈が強請ったものだった。もちろん、売るつもりでいた。綾人は、そんな気持ちを知らず、にっこりと微笑む。
「ねーえ、聞いてる?おねーさーん。」
「なああによお。」
 綾人と同じ声量、同じリズムで返したつもりが、莉奈の呂律は随分と回っていなかったようで、とろけた甘い声が痛む喉を通って出た。莉奈は悔やむのも惜しいような気がして、顔を上げる。酒に弱いのが、莉奈の弱点だった。
「あっはは、おねーさんも酔っ払いじゃーん。」
 莉奈と反対に、彼はカクカクとした、カタカナで書いたような笑い声だった。酔っ払ってるとは思えないような、ボールペンで書いたような笑い声だ。莉奈は無性におかしくなり、くつくつと笑った。何度も何度もナンパも声を掛けられるのもされたことがあるのに、何故か彼だけはショーウィンドウの中にあるような引力があった。重たそうな腕時計がぎらり、と莉奈を睨む。
 綾人はただ、恐ろしいくらいに美しい人だな、と思っていた。下げているのはiPhoneより少し大きいくらいのカバンと、高い上に人気のあるブランドの手提げ。顔は丸顔だけれど綺麗系。鼻先にわずかに違和感があるけれど、そのおかげで顔全体のイメージが綺麗、になっている。決して濃くない化粧の割に、猫目で跳ね上がったアイラインが目を惹いた。なんの帰りだろうか、好奇心が湧くのと同時に、この人とは関わってはいけない、と、綾人の直感が叫んでいた。彼はその警報を無視して、愛嬌だけはある笑顔で笑い続けた。その警報は正しかった。
「うち、ちかいのー?」
 莉奈は目をきょろりと回して、嘘をつく。彼女の得意技で、彼女の二番目に好きな事だった。騙すのも、嘘をつくのも、莉奈の大好きな事なのだ。「となりの駅、ひがしいけぶくろ!」
「東武東上線?」
「うーん、……そうだよ!」
 ふたりは近寄らない。五十メートル程度の距離を保つ。その姿はまさに、惹かれ合いながらもお互いを恐れるのを体現していた。綾人は莉奈の美しさに。莉奈は彼の腕時計に。
 莉奈が近寄ろうと足を踏み出した瞬間、高いヒールの足は崩れ、胃からラーメンが逆流した。綾人はまた、カタカナでクツクツと笑いながら、莉奈に近寄った。この女、面白い。好きだ。小さな背中をさすりながら、片手でタクシーを呼ぶ。どうせ、東池袋が最寄りなのも嘘だろう、と思いながら。
「ごめん…」
 莉奈は小さく謝りながら、食べた千円分のラーメンと、昼のサラダを吐いた。

 莉奈は、新札を膣に入れる夢を見ていた。それは彼女がよく見る夢で、かなり気に入っている、繰り返し見たいと願う夢だった。膣から出した万札はくしゃくしゃに濡れている。その万札は莉奈だけが触れて、莉奈だけの傍にずっと居てくれる。莉奈は彼を愛している。万札に、莉奈は口付けをして、それを傍に眠るのだ。
 莉奈は、性欲の対象が金銭だった。誰彼問わず触られる小銭をふしだらで愛おしいと感じ、簡単に手に入れることのできない万札を口説き落とすのが難しく美しいと感じていた。かといって高い金額であれば欲情すると言う訳でもなかった。彼女は金銭を愛し、その動きや物質に興奮し、ひとりで自慰行為に励んだ。そしてもちろん、たくさんのお金と出会い、愛し、手放し、出会う。そのために、手っ取り早く自分の身体を売っている。金銭を生み出してくれた子孫を騙して、愛を示している。それに彼らが応えてくれることは無い。そこまで考えて、目が覚めた。

 まずい。莉奈は目を開けて布団に触れる。触ったことのない、パキッとしたシーツ。見たことのない淡い色の天井。ひたすらに口の中でまずいを繰り返していた。莉奈は嘘をつくこと、騙すことを信条として生きていたが、それ故に自分には嘘をつかないことも信条だった。彼女の中でそれは相反しない。確かに彼は持っているという意味で惹かれる男だったが、自分が簡単に寝るようなはずではなかった。一銭も取らずに寝るなんて。人と寝るのはお金と出会うため、そう決めていたのに。その誓いを破ってしまった。無性な罪悪感に苛まれながら頭を揺らす。莉奈は記憶を戻そうと眉間を揉むが、出て来るものは一切無い。彼女は諦めて、唯一記憶のあるカバンの中の財布を開く。真っ赤なルイヴィトンの長財布には、それに見合うだけの万札の束が入っている。莉奈は変わりのないその光景にうっとりと顔を緩めながらも、目では紙を数える。一枚も減っていないことに安堵して、財布を閉じた。パチン。金具の音がして、莉奈は気持ちを切り替えようと顔を上げた。お金は減っていないが、身体は売っている。唯一身に纏っている黒レースのショーツがちくちくと痛むような気がして、ぱちん、とゴムを引っ張った。
 なんの変哲もないラブホテル。莉奈が一見した時にはそう思ったが、案外自分の目も信じられないものだと思い直した。最上階ではないが、キングサイズのベットには天蓋付きで、レースもちくちくと痛まなそうな素材だ。周りを見渡してみれば無駄に凝った装飾品も多く、決して安い部屋ではないことがわかる。ラブホテルにしては実用品、主にティッシュやゴム、電話子機がないのが不自然ではある。しかし、明らかに匂いは性欲の塊で、その他の気配はない。それに加えて……莉奈は薄々気がついていた身体の軽さを実感した。二十五を超えたあたりからどこかしらが痛い日々だったのに、今日はどこも痛まないどころか、飛べそうなほどに身体が軽い。柔らかくも吸い込まれるようなベッドが、沼へ引き摺り込むように全身を包み込む。
「こりゃ、相当大物釣ったかな。」
 ベッドに体を預け、莉奈は呟いた。その言葉は静かな部屋に吸い込まれ、すぐに消えて行った。
 どうするべきか、と悩む。この大物を捨てるのは勿体無いにも程があるが、一度タダで手にしたものにお金を積むのは、誰だって惜しむはずだ。天下の回りものと言っても、回しているのはごく少数だということも莉奈はしっかりと自覚している。回している中に、自分が入っていることも。回している人は、惜しむか流すかの二択だ。
 ごん、ごん。
 静けさを壊したのは、紛れもない綾人の再来だった。彼はわざと部屋のノッカーを鳴らし、莉奈を驚かせてやろうという幼い遊び心を持っていた。莉奈は飛び起きることも、声を出すこともなく、息を潜めて重厚な扉が開くのを待った。綾人は莉奈が駆けてくるのを待った。しかし、その攻防はすぐに終わる。綾人が扉を開けたのだ。莉奈の綺麗さだけではない、どこか遠くを見ているような雰囲気に恋焦がれていた。自分に興味がない女、というのを知らない小金持ちは多く、彼自身がそうだった。遊び心より恋心。綾人は自分が写らない瞳を見るべくして、扉を開けた。
「莉奈ちゃん、おはよ」
「ごめんなさい、私何も覚えてなくて。私、どうしてこんなお部屋にいるの?」
 莉奈は、男の顔を見て眉を下げた。軽薄でありながらも自信とお金の匂いを纏わせた男。年は同じか、少ししたくらいだろうか。三十は出ていないはずだ。下手に出るのが吉と見たのだ。
「お部屋にいるの?だって。昨日はこの部屋あんなに酷評してたのに。もしかして、俺のベットが気に入った?」
 綾人は昨晩を思い出して、思わず笑った。やっぱり面白い女性だな、と確信もした。昨日莉奈がここに来て言い放った言葉といえば、「いい趣味してますねえ。」と明らかにねちっこく吐き捨てただけなのだから。その後は自分で服を脱ぎ捨て、そのまま夢に落ちていった。莉奈は、まだその事を思い出していない。加えて、終電を逃した莉奈をタダで泊めてくれた男を警戒すらしている。綾人は、面白がって莉奈の足元へ腰掛けた。莉奈は警戒を解かないまま、布団を握って彼の一挙一動を見ていた。いつの間にか本当の攻防となっている。
「……ベットは気に入ったけど、あなたは気に入らない。介抱してくれたのね、ありがとう。」
 莉奈は自分なりに冷静に、端的に言った。カバンを掴んで出ようと思ったけれど、あまりに身体が涼しい。綾人は出会った時のように、固い笑い声で笑った。
「そんな細い身体であんなの食べて呑んだら、そりゃ吐くでしょ。」
「吐いたことない!」
「でも、今回は吐いた。で、俺が介抱した。わかる?」
  男は莉奈の前に指を立てて、しい、とあやすように微笑んだ。莉奈はぐっと唇を噛む。
「俺ね、莉奈ちゃんのこと気に入った。一回三十出すよ。ちなみに、五十まで出せる。」
 綾人は久々に、自分の性器が熱くなるのを感じる。莉奈こそが、自分のミューズだと確信していた。三十になっても檻の中で遊ぶ自分を逃がしてくれる、ミューズだ。莉奈は綾人の透き通った瞳を見ながら、五十の札束は財布にまだ入るだろうか、と考えていた。

 綾人は紛うことなきボンボンだった。古い言葉を使われることに、僅かな抵抗があったが、事実を否定するのもおかしい。なので、言われても特に否定はしてこなかった。元々土地持ちの家系から、たまたまに売りに出す土地と持っている土地がうまく作用し、今ではいくつかのタワーマンションを所有している。その息子だった。私立の幼稚園に入って、要領よく勉強をして付属の中高大と進み、今は親の土地で小さなバーを営んでいる。運の良い家系だからなのか、綾人自身も運がいいのか、全くのツテがない割には赤字を出していなかったし、毎月親からある程度の金が振り込まれる。不自由していないことに不自由していた。簡単に言ってしまえば、退屈していた。簡単に寝る女も、財布や服を見て擦り寄ってくる男も、不快ではなかったが、それは単なる慣れだった。もし綾人と入れ替わる事があったのなら、その人はどんなに金があっても、すぐに逃げ出したくなるだろう。綾人はつまり、金にしか恵まれない男だった。そんな綾人から見た莉奈は特別に魅力的だった。いい大学でもないだろうに賢そうな睨み顔。金をちらつかせた時にだけ出る、猛毒を持つ蛇のような顔。赤ら顔。吐いている時の、青い顔。それを隠さない姿。この人は多分、俺の知らない人だ。知らない人生を歩んできた人だ。自分で選んで生きてきた人だ。俺とは、違う。じっと、莉奈を見た。相変わらずその先は綾人を見ておらず、なにかその先を見ていた。
「何考えてんの?莉奈ちゃん。」
「べつに。五十だったらしてもいいよ。」
  莉奈は愛想程度に口角を上げると、しっとりと唇を開けた。
  綾人はその唇の間に指先を挿れる。ぬちゃり、と音がして、それから、ふたりは雪崩るように倒れ込んだ。深い深いベットに、沈む。綾人は耐えきれず本革のベルトをしゅるりと外した。莉奈はそれを横目に、唇を重ねる。何かの紹介やツテじゃなく、この人と会ったのは何かの縁なのかもしれないな、と思いながら、ちくちくと痛む、乾いたショーツーを脱ぎ捨てた。

「あ、ねえ。悪いけど。」
「え?なに?」
 綾人は既に息が上がっていた。当然、疲れていた訳ではなく莉奈の体に飢えていた。肌はつるんとしているのに、胸は手のひらから零れ、指の隙間を埋める。太腿はむちっと柔らかく、理想的な体だった。莉奈は一言も発さず、舐めても触れても反応は無い。人形を犯しているような気分になった綾人は、これはこれでいい、と莉奈の薄い腹に濡れた亀頭を押し付けた。
「私濡れないから、潤滑剤とかある?あ、クンニとかするの嫌な人?」
 莉奈は言い慣れた様子で吐き捨てると、可愛い顔で首を傾げた。
「は?濡れない?」
 綾人は訝しむ。時間は早いけどここは暗い。間接照明も悪くないし、置いてるアロマも安くはない。この女、どこまで高いんだ。
「私、人じゃ興奮しないの。」
 莉奈は回らない頭で、また、まずい、と思った。こんなにストレートに言ったこと、無い。まずい。五十万。言い訳どうしよう。思うと同時にお腹に当たっていたそれが、萎んでいくのを感じた。綾人は、きょとん、と目を丸める。本当にきょとん、と。天蓋と合わさり、その姿は幼い王子さまのようだった。
「やっぱりなし、お金いらない。帰る。」
「いやいや、帰すわけないじゃん。ねえ、俺の何がダメだった?ちんこ小さくて萎えた?」
 起き上がろうとする莉奈の手首を掴んで、ベットに押し付ける。綾人はもう興奮や、愛情や、欲や、恋ではなく、莉奈に興味があった。ただ、彼女のことを知りたかった。その純粋な興味が莉奈を一番に傷つけることを、綾人は知らない。莉奈は力いっぱいに腕を振り払う。逃げ出したくて、泣きたくて、情けなくて。こんなにいい部屋で、こんなにいい雰囲気で、お金も貰えて、たぶんイケメンで。それなのに私は少しも濡れない。少しも興奮しない。少しも嬉しくない。少しも悲しくもない。
「なあ、俺、莉奈ちゃんが帰ったら全部忘れるから。吐き出せばいいじゃん。俺、なんでも聞くから。」
 綾人は、なるべく静かに、優しく言った。魅力的で堪らないのに、莉奈は小さな子どものようだった。これもいや、あれもいや。でも何がいいか分からない。そんな、小さな子どもに見えた。だから、そっと腕の力を弱めた。莉奈の目にはじわり、と涙が浮かぶ。
「うるさいっ!離してよぉ!」
「分かった、分かったよ。」
 綾人は莉奈の手を離し、体を剥がした。莉奈の体は随分と冷たかった。それに気が付いて、綾人まで泣きたくなって、俯く。莉奈は分からなかった。今までこんなこと一度もしたことがなかったのに。家以外であんな夢を見たからだ。ピ、と、綾人の腕時計が鳴った。あの耽美な夢のせいじゃなく、この人の腕時計のせいだった。私の、全ての元凶。

 莉奈が初めて一万円札を使ったのが、腕時計だった。綾人がつけているような重厚な時計でも、今莉奈がつけている細い時計でもなく、G-SHOCKの防水の白い時計だった。白に基板が薄いピンク色で、彼女はそれをいたく気に入っていた。初めての腕時計、初めての高い買い物。彼女は一度着けてから、その時計を外そうとしなかった。
 その時計は一時間に一度、ピ、と機械音を鳴らした。気にし始めるとそれが一時間を無為に過ごした合図のように聞こえて、苛立った。なんとかその音を消そうと横のボタンを操作すると、音は消えないどころか、午後十一時にアラームをしかけてしまった。時間になると白い腕時計はピ、ピ、ピ、と十秒ほど鳴き続ける。莉奈は、その時計をベランダから投げた。ただただ馬鹿なことをしたと思った。拾いに行って親に聞けばよかった。鳴り続けるのが嫌なの。そう言えばよかった。だけど、それができなかった。一万円札を手放してまでこんな失敗をすることが恥ずかしくて、何かに、誰かに謝りたかった。莉奈が一番に願ったのは一万円札を返して欲しい、というまともな願いだった。
 それから莉奈は、目に見えてお金に執着した。バイトを始めては記帳し、記帳しては一万円札を一枚だけ下ろした。それを、うっとりと眺めた。鳴くことのない彼らを、愛し、傍へと置いた。午後十一時になる度に、莉奈の腕は後悔を孕む。駅から三十分歩かないと着かない実家では、まだきっと腕時計の音がする。東京は音がしないはずなのに、あの腕時計の音が聞こえる。音はしないけれど、聞こえる。あの時の一万円札とまた出会えたら。莉奈は思いを馳せながら、夜を過ごした。じゅっ、と溢れるように、ショーツが濡れた。はじめての性欲だった。

「はい、お水。莉奈ちゃん、落ち着いた?」
「……うん、ごめん。」
 綾人が差し出したペットボトルを受け取って、パキリと開ける。綾人は黒のシャツにジーンズを履いて、部屋の電気を明るくした。莉奈は綾人から受け取った服を膝に乗せ、まだ、全裸で座っていた。
「セックスするの、怖かった?」
「違う。」
「うん、だよね。あ、俺が怖い?」
 べつに、と莉奈は呟いた。幾分か冷静になって、何個かの言い訳が浮かんでいた。不感症とでも言えばよかった。あんなに勝気に挑んでおいて、今更そんな言い訳が通用しないことも分かっていた。だから、ただ黙っていた。そして、このバカそうなボンボンになら喋ってもいいかもしれないと思った。どうせ、忘れる。色んな人と出会って、色んなお金の使い方をして、たかが一人の女の性癖なんて、忘れる。それなら、吐き出してもいいんじゃないかと、思った。
 綾人は気を使って、ベットの横のソファに腰掛けた。こちらも、よく沈むソファだった。深紅の皮に錆びた金のような縁。ひんやりと、綾人の身体を包んだ。莉奈は天蓋の下で折れてしまいそうな身体で背中を丸めている。悲しい匂いがする。吐いている訳じゃないのに、昨日と同じくらいに莉奈は辛そうだった。
 莉奈は、すっかりメイクが落ちた目で、綾人を睨んだ。べつに綾人はちっとも悪くない、たまたまタイミングが悪かっただけだ。息を吸う。「私、お金が好きなの。」
「金?」
 綾人は、眉を潜めた。そんなにガツガツしてなかったじゃないか、そこもいいと思っていたのに。つう、と、金の縁を指先で撫でた。
「金って言わないで。」
「……ごめん。」
 綾人はわけも分からず、俯く。莉奈といると地面ばかり見ている。地面ばかり見たくなるような、覇気が今の莉奈にはあった。やけくそで、全部捨ててやる。莉奈はまさにそんな気持ちで居た。
「お金にね、興奮するの。お金の物質も、動きも、そういうの全部。綾人が私に興奮するように、お金に興奮するの。ねえ、意味わかんないよね。」
「意味わかんねえけど、つまり、俺とはセックスできないってこと?」
 綾人の口角が下がった。莉奈は何だかおかしくなって、笑った。この人は本当に何も知らない人だった。ただ、私が愛されることの無いお金に愛されて、普通に、ただ、普通に生きているだけの人だった。この部屋には窓がなかった。この人はここで育って、何も知らずに、ここでずっと息をしていたんだ。
「そうだよ。だから五十万は惜しいけど、泊めてくれてありがとう。」
「え、あ、帰る?」
「うん、タクシー呼んだから。」
「あ、出て左のエレベーター乗れば出口わかると思うから。」
「ありがとう。」
 莉奈は全く清々しくも、言ってやったとも思えず、ただ、無力だった。絨毯にヒールの音が呑まれ、孤独な音がした。綾人がここで死んでいくのなら、私もここに生まれたかったと思った。愛を知らずに死にたかった。綾人は、まだ何も知らなかった。

 莉奈は出社するのを諦め、帰路に着いた。家賃十万のアパートは、リホームしてあるものの薄暗い。物はほとんど置いていない。時計もない。料理もしない。生活感がない、と、自分でも思うのだった。それに比べれば、綾人の寝室の方が余程人の匂いがした。甘ったるい香水の匂いや、性の匂い、誤魔化すために置かれた強いアロマの匂い。それら全部が、綾人が生きている、という証のようだった。それじゃまるで、私は生きていないみたいだ。どろりと剥がれた化粧をそのままに、カバンを開ける。一番近い質屋に昨日受け取った指輪を入れ、二十万分、財布が厚くなっていた。なんで名前なんか入れてくれたんだろう。バカじゃないのか。苛立つ気持ちでヒールを脱ぎ捨てる。昼間はフリーランスの仕事、夜は愛人。フリーランスの仕事は事務所を持つくらいに稼いでいるし、愛人稼業も悪くない。だけど、もう、いいかもしれないと思った。無駄遣いしても死ぬまでは苦労しない額が莉奈の手元にはある。こんなに集めているから執着して、興奮して、私は普通から離れているのではないんだろうか。綾人みたいに人らしい生活を営めば、まだ遅くないかもしれない。思いながら、質屋で受け取った二十万を数える。一、二、三、四、五。数える指が震える。六、七、八、九、十。私よりうんと長く生きてきた彼らや、まだ産まれたばかりの彼らに人生があって、私からはいつか離れていく。働いても、働かなくても変わらない。一、二、三、四、五。ぞくり。内腿を撫でられたような、もどかしくて淡い性欲が湧く。六、七、八、九、十。耐えきれなくなって、最後の一枚を舐めた。しょっぱかった。どれだけ嘘を重ねてお金を積んでもらっても、ちっとも悪いと思わない。なのに、彼らすべてがいまは私のものだと思うと、息が上がる。身体が汗ばんで、痛むほど乾いていたショーツがびっとりと濡れているのが分かる。すぐに戻れないならもうすこしだけ、このままで。莉奈は札束を握ったまま玄関に倒れ込むと、濡れた膣に躊躇なく指を差し込んだ。指は綾人のものより熱く、札束は痛いほどに乾いている。ファンデーションが、札束に落ちた。

 綾人は呆然と座っていた。iPhoneで「お金 好き 性欲」などと余計なことを調べては、更に堂々巡りを繰り返し、自分が何も知らない動物になったような気分だった。金に?欲が?異性のように見えてるってことか?見えないだろ。同性愛ぐらいしかかじったことのない綾人には、意味がわからなくて、化かされたのかとも思った。莉奈は確かにここで寝転がっていた。静かな寝息で寝ていた。寝返りをする度に小さく声を漏らして、どんな寝顔よりそれが可愛くて。俺は甘えるのをやめてきちんと働こうと思った。触った頬は薄らピンクで、粉っぽかった。指を擦ると、まだ残っているような気がして、何度も、指を擦っていた。
 莉奈が綾人に、否、人間に性欲が湧かないんだとしたら、綾人は一体どうすればいいのだろうか。無数の金を投げても、莉奈はやっぱり「お金が好きだから」と拾いもしないのだろうか。「お金が好きだから」と拾うだけ拾って、去っていってしまうのだろうか。分からなくてもいいから、もう一度莉奈に会いたい。綾人の莉奈への思いが、莉奈のお金への思いだとするならば、それを俺は邪魔することはできない。じゃあ、どうすればいい?
 手掛かりはもう、あのラーメン屋しかなかった。綾人は人に頼ることが、できなかった。彼は、人に愛されることがなかったし、愛することもなかったからだ。それに気がついてもいなかったし、気がついたとしても彼はずっとこのままだっただろう。
 愛してくれたのは、運と金だけだった。
 初恋は小三の時で、公園で遊んだ一人の女の子だった。学校ではみんな同じような服を着て、勉強をして、遊んでいるのに、その子は砂場でいちばん綺麗な石を探していた。綾人はその隣でいちばん綺麗な女の子を見つけた。綾人はそれで良かったのに、その子はそうではなかった。出会って三日目。彼女は綾人の顔を見て眉を下げた。猫っぽい顔の大きな目がべちゃりと潰れて、綾人はそれだけで、もう会えないのだな、と思った。
『綾人くんお金持ちだから、私といちゃだめだよ。』
 毎日同じ黄ばんだシャツを着ていた彼女は、怒るでもなく、泣くでもなく、喜ぶでもなく、窘めるように言った。綾人も泣かなかった。俺は選んじゃいけないんだ。選んでこんな顔をさせるのなら、流されるままにいればいい。親の節税対策でも、知り合いの財布でも、クラブの盛り上げ要員でも。俺は選べない。選ばれることしかできない。選ばれるのを待つだけだ。悲しくなかったのに、今になって、俺は可哀想だな、と思った。ピ、と時計が鳴った。ひとりで座り込んで、二度目の機械音だった。

 もし欲を持つことが本当に自由で、誰にも拒めない、邪魔のできないものだとしたら、ふたりは幸せになれるのだろうか。それはきっと間違いだ。皮肉なことにも、莉奈は綾人がお金を持っているから受け入れ話してしまったというだけだ。綾人が金にも運にも恵まれない人間だったら、莉奈はどんなに吐きそうでもゲロを飲んだだろう。もし莉奈が普通の欲を持つ人間だったら?綾人は自分が愛を知らないことを思い出さないまま、何も愛さずに死んだのだろう。莉奈のことも、自分を選んだ人間、としか見ていなかったはずだ。綾人も、莉奈も苦しみすぎているくらいに苦しんだ。愛したい、愛されたい。それだけのはずなのにそれだけではなかった。欲は本当に、自由なものなのだろうか?私たちは、ふたりを、ふたりの欲を不思議ではない、と言い切れるだろうか。

 自分は人を愛していいのだろうか?降り続ける雨を見ながら、綾人は考えた。あの日の女の子のように、自分が選べば、また拒まれるかもしれない。それならいっそ、俺も無機物を愛せたらいい。拒まれることも嫌われることもない。ずっとそばにいてくれる。俺が選ぶこともできる。莉奈と会った日から、綾人は純粋にそう考えていた。バーのグラス。カクテルスプーン。シェイカー。酒瓶。コルク。栓抜き。コースター。金。客も従業員も、綾人を不思議がった。本格的にED診断でもされたのかね、と、声を潜めた。綾人はうーん、と笑って、否定しなかった。きらりとひかる彼たちを見れば見るほど、綾人は莉奈の事を考える羽目になった。これらも全部、本当は自分が選んだもののはずだ。バーを始めると決めたのも自分だ。それなのに何処か他人事で、愛していなかった。怖がっていたし、逃げていたから。莉奈からは逃げたくなかった。今日も最終電車が綾人の前を通る。莉奈は今日も来なかった。いつか会えるだろう。もし次に会えたら俺はなんて声を掛けよう。決まってもいなければ、自分がどうしたいのかもわかっていなかった。けれどただ、莉菜に会いたかった。きっと彼女は俺の愛を拒まない。莉奈はお金を愛しているから、俺を拒めない。それでもいい。ピ、と時計が鳴る。一時だった。綾人は傘を開いて、バーへと戻る。綾人の細い体に、大きな雨粒が跡を残した。

 お金が増える呪文はないんだろうか?吸い込まれて行ってしまった千円札を愛おしみながら、莉奈は考えた。干からびたモヤシを箸先でつつく。峰不二子みたいに、シャンパーニュでも開けられれば清々しくもあるのだが、莉奈が開けるのは中瓶だ。離れていくのも出会いの始まりだから、放すことを苦痛だとは思わないが、無駄に別れることは嫌だった。ごとごと。小さなグラスに泡のない麦酒を注いで、口を尖らせて吸うように飲み込む。それができると、グラスの淵に丸い白の輪ができて、上手に呑めてる印だ。赤ら顔で真剣に説教をした男を思い返しながら、莉奈は少しだけ覚めた気持ちで白い輪を見た。ビールの天使の輪が、莉奈にほくそ笑む。あなたにあの千円札はもう戻ってこないかもね。莉奈はそれを振り切るように、麦酒を継ぎ足す。わずかに積もった泡をくぐり抜けるように黄色い液体を啜り込んで、苦しくなるまで口に入れて、ごくごくと飲み干す。苦味が残る喉にナムルのお通しを噛む。塩味がじゅくりじゅくりと広がって行って、気がつけばもう一口継ぎ足したくなるのだ。大袈裟ではなく、まるで莉奈の人生を表していた。バイキングのように次へ次へと新しいものも古いものも全てを愛しては全てを手放す。莉奈はそうして生きている。そうやって生きていくしかないのだと、莉奈は腹を括っていた。最後にする訳が無い、むしろこれからだ、自分に誓っていた。
 どんどんと飽き足りなくなって、色んなものを味見して、一体何が美味しいのか、どれが本当の美味しさだったのか、すっかりと忘れてしまったんです、なんて思い込みをする。口の中には苦い味だけが残っていた。舌馴染みのある銅を舐めた時のようなほろ苦さで、莉奈は思わず綻ぶ。
 高くうつくしいダイヤを安いオレンジの照明に写す。きらりと光るホンモノの宝石は、莉奈の目には安っぽいドラマの涙に見えていた。それに飽きたのか、呆れたのか、莉奈は指紋を付けないようにそっと紺色の箱に戻しす。ぱたん、と箱を閉じて祈るようにそれに触れると、しっとりと、浅く指が沈んだ。そして、静かに反発をする。莉奈自身が放したのではなく、突き放されたように感じている。放されることがどこか愛おしく感じている彼女は、自分が「手放すまで」を愛しているのだと知っていた。
 人を傷つけたあとは、特別に体に悪いものを食べるのが莉奈の儀式だった。自分も傷つくべきだと思っているのかもしれないし、単純に、悪い気分のままで酔いたいからかもしれなかった。手切金にしてくれ、というのだから、まあ、私だって傷ついたとも言える。
「おまたせ」
 どん、と大きなどんぶりが机に鎮座する。莉奈は上目遣いでうなずいて、下瞼をきらりと光らせた。あの日彼女が投げた腕時計の音がピーピーと鳴るように、莉奈の涙袋はぴかぴかと光っていた。幼少期に探したゲームセンターの床のコインのような、みみっちく、薄汚い光でもあった。
 鳥肌すらうっすらと立つような冷房のなか、どんぶりは煙を放つ。ヤサイマシマシカラメマシアブラスクナメニンニク。傷つくための呪文を口の中で繰り返して、カロリーに食らいついく。
「ねえ莉奈ちゃん、俺たち協力しようよ。」
 渇いた声。莉奈は唇を開けたまま目だけで横を見た。隣にいたのは、綾人だった。莉奈は不本意にも箸を止めて、彼を見る。忘れた訳ではなかったけれど、忘れたかった。綾人は片肘をついて、口角を上げる。彼にとって、莉奈といるための賭けだった。
「貴重なお金も、貴重じゃないお金も、俺は多分全部に愛されてるよ。莉奈ちゃんをこっちに連れてこれる。俺は莉奈ちゃんが好きだし、莉奈ちゃんはお金が好きなんでしょ? 利害関係一致。どう?」
 不自由はさせない、と締めくくると綾人は莉奈のツリ目を見た。キャットアイが、長いまつ毛で塞がれている。
「寝取りでもするの?」
「え?」
「寝取り、強盗とか。」
 ずずぞ。莉奈は荒く麺を掻き出して啜った。綾人は一瞬フリーズして、微笑む。莉奈が帰ってから、綾人はずっと考えていた。金を目の前においてシコったりしてみた。けれど、何も分からなかった。莉奈が言っていたことは全然、全く、理解不能だった。動物性愛とか、死体性愛とか、そういうのは調べたら出てきたけど、出てきたところで同じくらい意味がわからなかった。けれど、莉奈のあの丸い背中が、この尖ったアイラインが、綾人を睨む顔が、手放すには惜しかった。どこまで面白い女に振り回されるのか、試してみたかった。人生を賭けて莉奈の欲を見ていたいと、綾人は心の底から思ったのだった。
「俺はそういうのも、嫌いじゃないよ。たのしそう。」
 綾人は、白い歯を見せて笑う。
「おまたせ」
 パキリ。箸を割る。変な人。互いにそう思いながら、ふたりは麺を掻き出した。野菜を摘んだ。スープを啜った。千円札は、券売機に吸い込まれた。ピ、と、綾人の時計が鳴った。

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矢原小春
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