二度と会えない一番のひとへ
あたしは酔うために買ったスト缶を、べこ、と潰した。というか、そいつは手の中で勝手に潰れた。
私は久々に会社で怒られて、お土産を一人だけもらえなくて、友達に今週末の誘いを断られて、仲良くなかった人から結婚式の招待状が届いて、踏んだり蹴ったりじゃん、って思ってたところだった。こんなのってないよ、泣きそうになりながらスト缶を開けた。
それが五分前。
『直木賞受賞式』って言葉が並んでて。ああ、そういえばそんな頃だったな。あたしはいつになったら『そっち』に行けるんだろ。そう思ってなんの気無しに開いたのがおしまいだった。
そこで、ひそやかな笑みを浮かべていたのは、一度だけ会ったことのある『特別』な人だった。
あれは確か五年くらい前。賞に作品を送る勇気なんてないのに、Twitterの内輪だけでぬるいお湯に浸かっていた頃だった。あなたのファンです、大好きです、素敵です、なんて言葉には悪い意味で慣れてた。あえて言葉にするなら最悪の状態だった。今のあたしがそこにいけたら、淡々と、お前は五年後もただのひとだよって冷たく言い放ってやりたいね。
彼、もそんなぬるいお湯の中のあたしのファンだった。あたしはその日秋葉原に用事があって、秋葉原、つまんねーって呟いた。
そしたら、すごく好きです、ファンです、会いたいです、今僕も秋葉原にいるんですけど、みたいな文章がすっごい熱量で送られてきた。
今思えば、熱量が伝わるような文章を書けること自体凄いんだよね。あたしのこの文章とか、多分、熱量ゼロだし。
あたしはちょっといい気になって、会いましょうか、って言ったんだった。そしたらすごく喜んで、5分後に着きました、って送られてきた。
やばくない?これはあたしもちょっと引いたよね。うわ、って思ったけどさ。もう着いてるってのにやっぱ無理ですってわけにもいかないし、あたしは思い切って会ってみたわけ。
そこにいたのはあたしと身長の変わらない小さな男の子だった。ちょっと目深に被ったキャップがトムジェリで、あたしはちょっと笑った。結構緊張してたんだと思う。でね、驚いたのがそのあと。その子が喋るじゃん。「○○さんですか?」って。それがさ、女の子の声だったんだよね。
正直、話では知ってたよ。そういう話も書いたことあったし。だけどまさか、本当に対面すると思わないじゃん。知らないし。あたし、すごい驚いて、
「女の子…?」
って聞いたの。我ながら超失礼。けどさ、耐性なかったらそうなるよ。だって、明らかに男の子なんだもん。
「体は女です。」
その子は申し訳なさそうに笑ったんだよね。あたし、やっちまったなー。けど、その子は踏ん切りついたのか、マックで全部話したんだよ。
いつ男だと思ったのか、とか、何が辛かったか、とか、そういう話。まあ、全然覚えてないんだけどね。確か、親が反対してて、半ばネグレクトだった、でももう家を出たから自由で、あなたのあの作品に救われて、みたいなことは話してた。
それで言ったんだよね、あたし。
「君も書いてみればいいじゃん。あたしには絶対できない体験だし、君にしかかけないものがあると思うよ。」
うわあ、恥ずかしい。つか、だせえ。ますますスト缶が凹む。あたしも凹む。
その子は、夕日を映したキラキラな泣き笑いの顔で、はい、って笑った。あたしは逆光だったから、もしかしたら、慈悲深い女神みたいな顔をしてたのかもしれない。
スト缶から溢れた甘い液体を、意地汚く啜る。
あたしは結果、ただのちょっと文章を書ける会社員。
その子は結果、直木賞を取っちゃう作家。
もうあのアカウントも消してしまったし、この子もとっくに消しているだろう。あたしのことなんてすっかり忘れてると思う。確認する方法もなければ、確認して、あなたのおかげです、なんて気を使われても死にたくなる。秋葉原のあのマックも、遠の昔に潰れているし。
あー、なにしてんだろ。いいな。ずるい。あたしには書けないもん。あたしは何にもないただの会社員だもん。でも、この体験もあたしにしかないよな。こんなとこでポジティブ発揮しなくていい。いいけどさ。
直木賞って、何歳でもいけるんだっけ。直近の出せそうな賞ってなんだっけ。
あたし、また書こうとしてる。『特別』がなんだよ。クソ喰らえだよ。そっちに行くから待ってろよ。あたしは久々に仕事用じゃないパソコンを起動した。ホコリの被った、普通のパソコン。酔っ払った頭でもさ、あたしが『特別』じゃないことはわかるから。今から『特別』になるのはあたしだって、絶対証明して見せるから。
スト缶は、テーブルの上で勝手に、ボコン、と元に戻った。
お読みいただきありがとうございます。あなたの指先一本、一度のスキで救われています。