岸信介がいた「巣鴨プリズン」—その歴史と現在の姿


第二次世界大戦後の日本の歴史を語る上で、「巣鴨プリズン」は欠かせない存在です。正式名称は「巣鴨拘置所」。この施設は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって使用され、戦争犯罪人(いわゆる戦犯)の収容施設として運営されました。戦時中の商工大臣であり後に日本の首相を務めた岸信介も、この場所に収容された戦犯容疑者の一人でした。本記事では、巣鴨プリズンの歴史や役割、そしてその跡地が現在どのように利用されているかについて詳しくご紹介します。

巣鴨プリズンの概要

巣鴨プリズンは、1945年11月にGHQにより東京都豊島区西巣鴨(現在の東池袋)に設立されました。当初は米軍の管理下に置かれ、戦争犯罪容疑者が収容される施設として運営されました。その後、サンフランシスコ講和条約が発効した1952年に日本政府に移管され、「巣鴨刑務所」と改称されました。

設立から閉鎖までの主な出来事
• 1945年11月:GHQが施設を接収し、「スガモプリズン」として運営を開始。
• 1948年12月23日:極東国際軍事裁判で死刑判決を受けた7名(東條英機ら)の絞首刑が執行。
• 1952年4月:日本政府に移管され、「巣鴨刑務所」となる。
• 1958年5月:最後の戦犯18名が釈放され、施設は閉鎖。

岸信介と巣鴨プリズン

岸信介は、戦時中に東條英機内閣で商工大臣を務めた経歴を持つ政治家で、A級戦犯容疑者として1945年に逮捕されました。巣鴨プリズンに収容された彼でしたが、最終的に起訴はされず、釈放されました。その後、彼は1957年に内閣総理大臣となり、日本の戦後復興を主導しました。

岸信介が巣鴨プリズンに収容されていた期間は、彼自身の人生だけでなく、日本の戦後政治においても重要な転機となりました。巣鴨プリズンでの経験が、彼の政治思想や後の行動に影響を与えたとされています。

巣鴨プリズンの場所と現在の姿

多くの人が「巣鴨プリズン」という名称から、施設が巣鴨駅付近にあったと考えがちですが、実際には現在の東池袋地域に位置していました。具体的には、大塚駅と池袋駅の間、現在の「サンシャインシティ」や「東池袋中央公園」がある場所に広がっていました。

跡地の現在の利用状況
• サンシャインシティ:大型複合施設として観光やショッピングの中心地。
• 東池袋中央公園:周辺住民や観光客が利用する緑豊かな憩いの場。

跡地には、戦後日本の復興を象徴する現代的な建物や施設が立ち並び、当時の面影はほとんど残されていません。しかし、施設跡地に「平和祈念碑」が建てられ、過去の歴史を振り返るための場所として機能しています。

巣鴨プリズンが日本社会に与えた影響

巣鴨プリズンは、戦後日本における戦争責任の追及とその解釈を象徴する施設でした。ここで収容され、処刑された戦犯たちの存在は、戦後の日本が国際社会の一員として復帰する過程で大きな意味を持ちました。一方で、岸信介のように起訴を免れ、後に政治的復活を遂げた人物もおり、この点は日本国内外で議論を呼びました。

今日、巣鴨プリズンの跡地は人々の日常生活や経済活動の一部となっていますが、そこに刻まれた歴史は、戦争と平和について考える重要な教訓を提供し続けています。

巣鴨プリズンをめぐる歴史を知ることで、私たちは過去の教訓から何を学び、未来にどう生かしていくべきかを考えるきっかけを得られるでしょう。戦後80年近くが経過した今こそ、その意義を改めて見つめ直すべき時です。

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