【往復書簡:ひびをおくる】柳沼雄太004
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遠回り
あの夜から幾度目かの朝を迎えている。部屋の窓から見える家のアンテナは、首を伸ばして朝が訪れる音を聴いているかのようである。瑠璃色の空が徐々に白色へと変わりゆく様相は、僕の気持ちを明快に表しているようで気持ちが良く、穏やかな風にそよぐ緑も祝祭の前の群衆のさざめきのような気がして、どこか誇らしい気持ちにもなる。
彼女と連絡を取ることができた。震える指で文字を打っては消すことを繰り返した。幾度も打ち直した文章は意外と短く、真意が伝わるかどうか甚だ疑問ではあったが、とにかく言葉を届けたいという一心で送信した。今日と同じ早暁のことであったように記憶している。それから返信が来るまで街を歩き回った。朝焼けが差す街は未だ人影が見えず、夜半と同じように静まり返っていた。この静寂はいつか彷徨った街を思い出させたが、くぐもったような後ろめたさはもうなかった。ありし日の遠い思い出のように、以前の出来事を懐かしむ気持ちになった。
三十分ほど歩いた頃だろうか。携帯電話が鳴り、彼女からの連絡であることが直感で分かった。届けられた言葉がどのような言葉であるかを認識することが怖い気持ちもあったが、久し振りに彼女の名前が通知されたことの嬉しさの方が勝り、すぐさまメッセージを開いた。
彼女からの言葉は非常にささやかでさりげなかった。そして、そのさりげなさがこの上なく幸せなことのように思えた。太陽は既に東の空を上りきり、日差しは燦燦と照りつけていた。街に反射してきらめく光が、こそばゆいほど僕に届いていた。
それから当たり障りのない連絡を取り合った。彼女が今気になっている洋服のこと、在宅勤務中の気苦労のこと、最近繰り返し観ている昔の映画のことなど、彼女から話題が上がることもあれば、こちらから質問を投げ掛けることもあった。知らず知らずのうちに、メッセージは長くなっていった。それでも彼女に対して言葉を尽くすことを厭うことはなかった。次々と画面に表示される彼女からの言葉は、彼女の口から紡がれる声そのもののように思えた。少し低めの彼女の声を思い浮かべれば浮かべるほどに、あの日の涙声は記憶の中から徐々に薄れていった。
彼女が最近早朝に街を散歩していることも知った。誰もいない街を歩きながら、街にあふれる文字を読むのが楽しいと言った。錆びついた歯医者の看板や、明け方まで光が点っているカラオケ屋の看板、縦書きの町名表示板まで、歩きながら文字を読むことが好きで、不動産会社の店舗に貼られている物件情報も仔細に読むとも言っていた。生活を想像することがとても楽しいようだ。危ないから車には気を付けなよと送ると、車なんて滅多に通らないから大丈夫と笑顔の絵文字ともに返信があった。絵文字につられて、僕にも思わず笑みがこぼれた。
彼女と連絡を取り合っている時は、楽しくも静謐な時間が流れていた。冷静になって、僕らの元々の違いを考える。慣れないこともすぐに行動に移してしまい、肝心なところで抜けている僕と、何でも慎重に調べ上げてから行動に移す彼女と。食の好みも音楽の好みも異なるが、こうして同じ話題で話が続き、同じ時を過ごしている。汽水が海水へと注ぎ込む河口のようにお互いが解け合って海となり、ひとつの水平線のように穏やかな時間が続くと思っていた。
そして今日、この夏の予定を彼女に切り出そうと思った。とある喫茶店の窓に八月のカレンダーが掛かっていて、八月の休暇を利用し彼女がいつか行きたいと言っていた海辺に行くことを思い付いた。もう迷いなく彼女へ連絡をする。
「前に言ってたあの海辺、八月の休みに行かない?」
急いた気持ちで送ったメッセージに、なかなか既読が付かない。焦燥に駆られ、携帯電話のロックを何度も外してしまう。
メッセージを送ってから数時間後、ようやく彼女から返信があった。
「八月か...。話したいことがあるんだけど...。」
彼女にしては歯切れの悪いメッセージだ。すぐに返信をしようと思いキーボードを打ちかけた時、彼女の名前が携帯電話の画面に大きく表示される。彼女からの着信だ。
「...もしもし...。」
待ち望んだ彼女の声は、霧雨の夜に聞いた声に似ている。
「突然ごめんね。あの...話なんだけどね...。」
彼女の話を聞きながら、僕はいつかの通勤途中に見た向日葵を思い出している。向日葵にしては早く咲き過ぎたその花は、七月の下旬には幾つかの花が枯れてしまっていた。地面を見下ろす姿勢で未だにそこにある。まだ花弁を落としていない花には希望を重ねて見ていたことに、たった今気付く。僕の逡巡は遠回りだったのだろうか。向日葵は何も答えない。
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鳥野みるめ様
こんにちは。梅雨が明けたと思ったら、一気に夏の盛りですね。東京も気温の高い日が続いています。湿気は少なく感じられても、昼間の熱気は耐え難いです。鎌倉は熱を帯びた潮風がまとわりつく季節ですよね。
よだかの星、読んでいただいたんですね。よだかは星にはなれなかったですが、星に近しい青い美しい光になって自分のからだが燃え上がっていることを知ります。みるめさんの言葉の通り、よだかの決意が感じられます。選択を続ける生活の中で光になると決意したよだかの生き方に、僕も憧れを感じました。
この往復書簡も、僕が返信をすれば残りはあと一往復ですね。時の早さを実感します。日常を人に伝える機会は、普段の生活ではほとんどないですよね。せめて日記に著すくらいでしょうか。みるめさんが何を見て、何を感じて生活しているのかの一部分だけでも知ることができたのは、体験として自分に残りました。そして、自分の生活を知ってもらうという経験も、とても貴重でした。生活を綴るという行為には不思議な力があるように感じます。
「向き合った分だけ答えを得られるような気がする」とは、今の心情にぴったりで素敵な言葉だと思います。文字を何度もなぞることで、自分の中に色濃く残りますし、いつでもどこでも反芻することができます。手書きだと、尚更、文字の癖が頭に残ったりもします。
今回の僕の小説には、“光”が多く登場します。「照らし続けるもの」としてではなく、「消えてしまうもの」として読むと、異なった味わいを感じられるかもしれません。
写真を撮る時の想像力について、過去の経験をきっかけに対象を重ねて撮影をすることに、とても興味を惹かれます。僕の言葉も、過去に獲得した言葉が身体の奥深くに眠っていて、ある時に突然、単語やフレーズが目の前に浮かび上がります。今回も「あの夜から幾度目かの朝を迎えている。」という一文が、みるめさんからの写真を見た時に浮かび上がりました。この一文から歯車がかっちりと噛み合って、物語が動き出すイメージです。過去の経験はもしかしたら揺るぎなく大切なものかもしれないですね。
『雨をよぶ灯台』、短いが贅沢な気持ちになれる本ですよね。最近は短い文章をよく読んでいるかもしれません。目に留まった言葉を噛み締めることが心地良く感じられます。
思い返すと、久しくライブに行っていないです。春にはなかなか会えなかった人に少しでも会うことも、自分の中では小規模なイベントのように感じます。ギターも練習しておきますね。
今年の夏は早足で過ぎ去ってしまうのでしょうか。最近仕事が忙しくなってきました。みるめさんもお仕事大変だと思いますが、お互い残りの夏を駆け抜けられるといいですね。
2020.08.17
書肆 海と夕焼
柳沼雄太
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雑記
例年に比べ、変わった夏です。炎天下でもマスクをして歩かなければならない夏。すぐに汗が流れ落ちます。
私の記事のタイトルの次に配置されている原稿用紙の写真。実は小説を原稿用紙にしたためて、みるめさんへ送っています。執筆の段階ではパソコンで書き、原稿用紙に清書をするという順序です。原稿用紙に清書をする時に、この表現の方が言いたいことが伝わると思い、単語やフレーズを変更することも大いにあります。
言葉を何度も綴り直すことで、見えてくる場面が大きく変わります。自分が言葉を綴る意義は、ここにあるのだろうとさえ思います。
小説の結末をぼんやりと想像しながら、届けられる写真と手紙を待つ時間をとても大切に思っています。
2020.08.20 柳沼雄太
◆今回の小説の元であるみるめさんの写真は下記リンクよりご覧ください。
◆前回の小説は下記リンクからお読みください。