Christianity is Rock N Roll (6月9日『ロックの日』)
音声データ
詩編・聖書日課・特祷
2024年6月9日(日)の詩編・聖書日課
旧 約 創世記 3章8〜21節
詩 編 130編
使徒書 コリントの信徒への手紙二 4章13〜18節
福音書 マルコによる福音書 3章20〜35節
特祷(聖霊降臨後第3主日(特定5))
全能の神よ、どうかこの世界がみ摂理のもとに安らかに治められ、主の公会がいつも喜びに溢れ、信頼と穏やかな心をもって、あなたに仕えることができますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン
下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。
はじめに
(Stomp, Stomp, Clap!! 『ウィー・ウィル・ロック・ユー』の最初のフレーズをアカペラで歌う)
どうも皆さん、「いつくしみ!」
本日6月9日は、ロク・キュウ、ロク・ク……ということで、「ロックの日」と言われています。「教会」と「ロック」、「キリスト教」と「ロック」と言いますと、なかなか未だに、関わりが薄いというか、どこか縁遠いというか……、そういう感覚を抱いてしまいます。まぁ、ロックだけではありませんけれども、我々のような、いわゆる“伝統的な”キリスト教会は、そういう(20世紀から21世紀にかけて誕生した)新しいジャンルの音楽というものを、多くの場合、あまり肯定的に受け入れてこなかった歴史があるのですよね。それが、現在に至るまで、お互いの間に大きな“溝”を残してしまっているわけです。
それでも、今こうして、「教会」の礼拝の中で「ロック」の話をしたりとか、あるいは先ほどのように、Queenの“We Will Rock You”を歌ったとしても、(皆さん、「えぇっ!?」と驚かれたとは思いますけれども)別に、「けしからん!」と言って怒られるわけではない――ということは、もはやそれほどまでに、「ロック(ロックミュージック)」というものが、日常生活の中に浸透している……、当たり前の存在になっているということの証拠であろうと思うのですね。
ところで、本日の礼拝には、このあとお昼から「ゴスペル」のコンサートをしていただく「Harlem Japanese Gospel Choir Nagoya」の方々も、何名かご出席くださっています。ようこそお越しくださいました。皆さん、拍手で歓迎いたしましょう。
僕も実は、一時期、教会で活動しているゴスペルクワイアに参加していた頃がありましたし、また、以前チャプレンとして働いていた大学でも、学生たちと一緒にゴスペルを練習することもありました。なので、まぁ今でこそね、なかなか歌う機会が無くなってしまいましたけれども、それでも、僕にとって「ゴスペル」という音楽は、“すごく身近な教会音楽”だと、今でも感じています。
この「ロックの日」である6月9日に、教会で「ゴスペル」のコンサートが開かれる……。これって、“ロック”なことじゃないですかね? 偶然?それとも狙った? いずれにせよ、一宮聖光教会、なかなか“ロック”だなと僕は思います。
ロックとゴスペル
さて、そのような「ゴスペルミュージック」と「ロックミュージック」に関してですけれども、この二つの音楽の間には、その成り立ちの歴史において、ある重要な共通点があるのですよね。それは、どちらも「アメリカの黒人(アフリカン・アメリカン)のコミュニティ」を起源としているということです。
「ゴスペル」という音楽は(また後ほどご説明があると思いますけれども)、かつて、アメリカの黒人クリスチャンたちの間で歌われていた「霊歌(黒人霊歌)」という音楽から生まれたとされています。その「黒人霊歌」が、様々な音楽の影響を受けることで、だいたい1920年代から1930年代と言われていますけれども、「ゴスペル」という新しいジャンルの音楽を誕生させることになりました。1920年代、1930年代というと、今から100年くらい前ということになりますよね。キリスト教の長い歴史から言えば、ゴスペルという音楽は、まだまだ“新しい音楽”という感じがしますけれども、それでも「100年の歴史がある」と考えれば、「ゴスペルミュージック」というのももう、随分とクラシカルな“キリスト教音楽”の一つになったんじゃないかなと思いますね。
一方で、「ロックミュージック」も同じく、もとを辿れば、アメリカの黒人コミュニティにルーツを持っています。その起源とされる「ブルース」という音楽は、黒人霊歌やゴスペルなどというような“集団・共同体の歌”とは対照的に、“個人の想いをうたう歌”として生まれました。そのブルースから、「R&B(リズムアンドブルース)」というノリの良い、リズムカルな音楽が派生して出てくるわけですけれども、それによって、今まで“黒人が歌う黒人のための音楽”とされてきたブルースとかジャズ、R&Bなどの音楽に、白人たちが注目するようになるのですね。そして、白人たちが、自分たちの音楽に“ブラックミュージック”の要素を取り入れるようになったことで、1950年代に「ロックンロール」の時代が到来。そして更に、イギリスのビートルズの襲来に代表される、いわゆる「ブリティッシュ・インヴェイジョン(British Invasion)」によってアメリカの音楽シーンに革命が起こります。それまで、“ダンスミュージック”としてのイメージの強かったロックンロールが、今度は、“芸術性”を伴うものとして(つまり、じっくり味わう音楽として)進化を遂げた。その新しい音楽こそが、「ロックミュージック」だったわけなんですね。
抑圧と解放
というわけで、かなり簡単に「ゴスペル」と「ロック」、この二つの音楽の成り立ちに関してご紹介させていただきましたけれども、その中で一つ、“重要なこと”をまだお話してしておりません。これを語らずして、ゴスペルとロック、そしてキリスト教、この3つをテーマとした話はできない……とも言える大事なことです。それは、この二つの音楽はどちらも、「抑圧」と「解放」という要素を含んでいるということですね。
ブラックミュージック(アメリカの黒人たちの音楽)は、「奴隷制」、「人種差別」の歴史と表裏一体のものであるということを、我々はまず第一に理解しておく必要があります。アフリカの各地から無理やり連れてこられた黒人たちは、まさに(命以外の)全てを剥奪された状態で、人間以下の存在として扱われていました。
彼らは、そういう抑圧的な状況の中で、白人の文化に触れつつ、しかし白人音楽とは全く違う、独自の音楽、ブラックミュージックを生み出していったのですね。それは、たとえば「黒人霊歌」や「ゴスペル」のような、キリスト教の救いと解放をテーマにした歌でもありましたし、また、「ブルース」、「R&B」のように、宗教的ではない、この世的な想い、自由と快楽というものを歌うものでもありました。
ただし、アメリカの地において、“抑圧”と言えるような状況からの“解放”というものを求めていたのは、黒人たちだけではなかったのですね。これは注意して語らなければならないのですけれども、白人の、特に若い人たちもまた、その時代における“旧態依然の社会”の中にとらわれ続けることから「解放されたい」と望んでいたのですね。もちろん、“Black Lives Matter”という言葉が象徴しておりますように、「黒人の問題」と「白人の問題」とを同列に語ることはできません。何故ならば……、それはやはり、黒人の人たちが被っていた「奴隷制」や「人種差別」の歴史というものは、どう考えても、白人たちの側に責任があるからです。逆に、白人の若者たちの感じている閉塞感に、黒人たちは(直接は)関わっていません。なので、「黒人の抑圧と解放」、そして、「白人の抑圧と解放」、この二つを、同じようなものとして語ってはならないわけです。
それでも、20世紀のアメリカにおいて、主に白人の若者たちが巻き起こした、いわゆる「カウンターカルチャー」というものは(公民権運動とか反戦運動などの様々な社会運動とも共鳴し合いながら)、黒人たちも含め、あらゆる“被抑圧者たち”の解放を実現していく、その一助を担うものとなっていったのですね。
今回のテーマの一つである「ロック」というものは、まさにそのような、柔軟性に欠ける凝り固まったキリスト教社会をめぐる、“抑圧”と“解放”という文脈の中で、必然的に生み出されていったものだったわけです。
創3章の神と旧来のキリスト教社会
さて、ここで、今回の聖書のテクストに目を移してみたいと思うのですけれども……。今日の旧約聖書の箇所、創世記の3章8節以下のところをご覧いただけますでしょうか。この創世記3章の物語というのは、日本でも良く知られているお話ですね。「失楽園」「堕落の物語」「楽園追放」などというようにも言われているものでありますけれども、今回、僕はちょっと、このアダムとエバのお話を“ロックな視点”から読んでみたのですね。つまり、従来の読み方とは違う角度から読んでみたわけです。そうしましたところ、実は、このアダムとエバの物語というのは、ひょっとすると、先ほどお話したような「新しい価値観を求める人々と、それを守ろうとするキリスト教社会の構図」に、非常によく似ているのではないかと感じたのですね。
アダムとエバは、主なる神が「食べてはいけない」と言っていた木から、実をもいで食べてしまった。そのせいで彼らは、主なる神から罰を与えられることになった――というのが、この箇所の内容となっています。
「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創3:16-17) ……この神が定めたルールに、アダムとエバは反してしまった。どうしてそんなことが起こったのかというと、この箇所にもう一人登場しているキャラクター、「蛇」が“余計なこと”を言ってしまったからである。それゆえに、ここに登場している「蛇」は、実は「悪魔(サタン)」だったのだと、のちの時代に解釈されることになっていきます。
まぁ確かにね、「蛇」はどう考えても“余計なこと”を言っています。「蛇」がアダムとエバに“余計なこと”を言わなければ、彼女たちは禁断の実を食べなくて済んだはずですからね。しかし……です。「蛇」は“余計なこと”を言ったけれども、決して“嘘”をついたわけではなかった(3:4-5)。その事実を、見逃してはいけません。
「決して死ぬことはない。」→ その通り、アダムとエバは、木の実を食べても死にませんでした。「それを食べると、目が開け、」→ これも正しい。二人の目は開かれました。そして、「神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」→ この後の22節を読んでみますと、「人は[……]善悪を知る者となった。」と書かれていますので、これも真実であると言えます。そういうわけですので、実は、蛇は二人に対して、何一つ間違ったことは言っていなかったのですね。さらに言えば、蛇は別に、二人に対して、「その実を食べてみろ」と言ったわけでもないのです。騙してもいないし、唆してもいない。なんと蛇は、ただ“事実のみ”をアダムとエバに伝えただけだったのですね。
それにもかかわらず(!)、木の実を食べた(純粋な心の持ち主である)二人と、事実を伝えただけの蛇は、それぞれ、主なる神から“罰”を与えられることになります。どうなんですかね、これ。これは、あまりにも理不尽すぎるのではないか、と僕は思えてならないのですが、皆さんはどう思われるでしょうか。「食べたら必ず死んでしまう」という、神の“嘘”。嘘というか、作り話というか、脅し文句というか……。「嘘も方便」とは言いますけれども、それでも、じゃあ「どうして食べてはいけなかったのか」ということを、神は“本当のこと”を、もっと丁寧に、アダムとエバに説明すべきだったのではないかと思います。
変化を望むことこそ「ロック」だ
この箇所で主なる神が見せている、いわば“中途半端な姿勢”、“曖昧な姿”というものが、まさに、「ロック」が誕生した20世紀アメリカの“古いキリスト教社会”に重なる……、と感じてしまうのは、僕だけでしょうか。
考えてみますと、イエス・キリストという存在もまた、当時、ユダヤ教指導者たちから、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」などと散々罵られていたと、今日の箇所にも書かれていましたよね(マコ3:22)。彼ら、ユダヤ教のマジョリティたちにとって、イエスの活動というのは、あまりにも先鋭的すぎて、到底受け入れることができないものだったわけです。
もちろん、イエス・キリストの活動と、20世紀アメリカの「カウンターカルチャー」は同じだ、などという極端なことを言うつもりはありませんけれども、それでも、彼らの間には“共通していること”が一つあるのですね。それは、「多くの問題を抱える古い社会に対して、彼ら彼女らは常に“ロックであり続けた”」ということです。“ロック”って、便利な言葉ですよね(笑)。でも、イエスにしても、アメリカの若者たちにしても、やはり彼ら彼女らは、まさに“ロック”だったのです。はりぼて(の神)ではなく、本物(の神)を追求しようとした――。そして、抑圧的な世界を解放しようとした――。これを「ロック」と言わずして、果たして何と言うことができるでしょうか。
おわりに
この世界は“諸行無常”、変わらないものは何一つ無い……ということを、我々はこれまでの歴史を通じてよく知っているはずですね。諸行無常というのは、仏教の言葉ですけれども、キリスト教においても「あらゆるものは過ぎ去っていくのだ」というメッセージが、常に、福音の中心にあります(Ⅱコリ4:18など)。それでも、我々人間というものは、どうしても、自分に関わること、あるいは自分たちに関わることを「変えたくない」と、心のどこかで望み、執着してしまいがちだと思うのですね。そんな、頑なな我々人間のことを、“真のKing of ROCK”であるイエス・キリストが、呼んでいます。「わたしについて来なさい。」(マコ1:17)「さぁ、We will rock you、世界を揺さぶりに行こうぜ!」
閉鎖的なこの世を、閉じ込められている世の人々を、蓋をされたままの主の福音(ゴスペル)を、そして、立ち止まってしまう僕ら自身を、“解放”へといざなうために、今日からまた、イエスの招きに共に応えていく一人ひとりとして歩んでいけますように。
……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。
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